――「支那人に代わって支那のために考えた・・・」――内藤(28)
内藤湖南『支那論』(文藝春秋 2013年)
これまで見たところでは、どうやら内藤は「変法自強」という改革論を余り評価しない、いや直截にいうなら大層お嫌いのようだ。中国が抱える歴史的・民族的・社会的背景を深刻に省みて克服する努力もしないままで、先進諸国で行われている制度をそのまま持ち込んでも中国の富強が達成されるわけがない。「変法自強」は安直に過ぎ、「支那のため」にはならない。「何でも外国人を排斥さえすれば、国家の独立が維持されるもののように妄想しておる新しい書生輩」なんぞは思慮分別に欠ける。短慮に過ぎる、というのだろう。
たしかに中国の動きを見ていると、短慮の謗りを免れそうにない出来事に出くわすことは必ずしも珍しくはない。
おそらく最も顕著な例が1958年に毛沢東が打ち上げた大躍進だろう。「超英?美(イギリスを追い越し、アメリカに追い着く)」という看板さえ掲げ国を挙げて立ち上がりさえすれば、経済的にも大躍進が達成され、社会主義の大義を忘れ不届き千万にも「平和共存」を掲げて米ソ協調路線を突っ走るフルシチョフ・ソ連首相に赤っ恥を書かせ、自らが世界の共産主義運動の指導者になれると目論んでいた毛沢東だったが、それが「妄想」でしかなかったことは事実が教えている。中国人に地獄の日々を送らせただけではなく、中国社会の民力を大いに殺いだのであった。
「魂の革命」を掲げさえすれば、全国民が私心を捨てて社会主義の大義に殉じ、やがてはアメリカ帝国主義を凌駕し、ソ連社会帝国主義を圧倒する社会主義大国が地上に実現するという触れ込みで始まった文化大革命にしても、1976年に毛沢東が死んで文化大革命の看板を外して見たら、なんと「大後退の10年」と総括されてオシマイ。
1978年末に踏み切った�小平の改革・開放にしても、当初は日本のみならず西側から最新機器と技術を持ち込みさえすれば、巨大な貧乏国家から一気に脱却できると喧伝していたように記憶する。
大躍進にしても文革にしても、改革・開放にしても、内藤が揶揄気味に批判する清末の「変法自強」にしても、実態なきスローガン政治の類に思える。調査研究なくして発言権なしとの毛沢東の“卓見”に従うなら、毛沢東も�小平も、清末まで遡れば「変法自強」を主張した人々も、さらには「『変法自強』などという意味の新教育を以て養成されたところの南方人」も、やはり自らの発言内容に自己撞着することはあっても、事前に行うべき徹底した調査研究には関心を払わなかったということか。
それはさておき、「日露戦争以後に、かように大勢上外国の勢力に服従しなければならぬものと覚悟をした人物を以て満洲を支配させずに、日清戦争の経験も、日露戦争の経験もないところの支那の南方人、殊に近来『変法自強』などという意味の新教育を以て養成されたところの南方人を多く満洲の官吏として移入して来た」という指摘は、その後の日中関係を考えるうえで簡単には見過ごすことが出来そうにない発言だ。これに加えるならば、「満洲の官吏として移入して来た」彼らが「何でも外国人を排斥さえすれば、国家の独立が維持されるもののように妄想しておる新しい書生輩」であり、それゆえに「日本に対する感情、政策が、非常に日本に不利であった」という主張である。
日露戦争以前、実質的に満洲を自らの地としていた河北・山東出身者を中核する漢人は満洲の将来はロシアとの提携にありと考えていた。だが日露戦争で日本が勝利したことから方針は転換され、やはり日本の「勢力に服従しなければならぬものと覚悟をした」にもかかわらず、日本は「南方人を多く満洲の官吏として移入して来た」。彼らも日本も共に満洲の実情、在満漢人の心情を理解していなかった――これが内藤の考えだろう。《QED》