――「支那人に代わって支那のために考えた・・・」――内藤(36)
内藤湖南『支那論』(文藝春秋 2013年)
内藤に依れば立憲共和制を掲げた辛亥革命ではあるが、清朝官僚の筆頭であった袁世凱が中華民国のトップに立ったことで、清朝による統治の仕組みがそのまま温存されていしまった。中華民国における統一は「兵隊と無頼漢と一致しておるような意味の兵隊」によって維持され、財政は野心に満ちた列強が貸し込む借款によって維持されているようなものであり、立憲共和制とはいうものの中華民国は清朝体制の継続であり、清朝の頂点から満洲族の愛新覚羅一族を追放し、代わりに漢族の袁世凱が坐ったに過ぎないことになる。
内藤は宗族などの地方自治制度の活用を説くが、族長・家長によって束ねられた土地に根差した宗族組織そのものが封建体制の中核であることに気づいていないようだ。
民主化運動を推進し、天安門事件を機に香港に逃れた金観濤・劉青峰夫妻は封建社会において王朝が頻繁に交代しようとも歴代中華帝国が安定的に維持された要因を考究し、中国の“超安定システム”の根元を宗法組織に求めた。
「中国の宗法組織の内部は、まさに厳然とした一個の小社会であり、族長・家長は財産を支配し、族規・家法を執行し、同族の公共事務の大権を掌握する。清代に“国法は家法に如かず”とか“郷評は斧より厳”といった諺があったが、これは宗法組織が社会の基層部分で個々人を管理していることを言い表したものだ。また宗法組織は政府と結びつくこともできる。宗法・族長・家長は往々にして族人が税を納めたとか、役に服したとかを監督し、公的業務の代行を自分のなすべき用務としている。〔中略〕このようにして中国の封建社会は、最上層の国家機器――大一統官僚機構を通じて各県を経て、さらに郷紳自治を仲介として最後に最終底辺の宗族組織から各家庭に達し、見事に仕組みあげられた農業社会を実現したのである」。(金観濤・劉青峰『開放中的変遷 再論中国社会超安定結構』香港中文大学出版社 1993年)
これに依れば、内藤が諸悪の根源と見做す官吏・胥吏は宗族組織によって担われていることになる。官吏は科挙試験によって郷紳(地主)層から選抜され、官を辞して後は郷紳に戻る。彼らが周辺に胥吏を配し、中央権力による地方統治を“代行”する一方で、土地を介して人々を支配することになる。
金観濤・劉青峰の考えを敷衍するなら、この郷紳層こそが国家組織の中核に位置し、官吏を生み出すことで「最上層の国家機器」を支え、宗族=土地によって「最終底辺の宗族組織から各家庭」を支配し、総体的に「仕組みあげられた農業社会を実現」させてきたことになる。であればこそ、郷紳層によって差配された宗族組織の安定如何が中国社会の安定に繋がり、結果として元や清のように漢族以外の皇帝が生まれようが、「見事に仕組み上げられた農業社会」=封建王朝が持続したことになる。
どうやら内藤は、この宗族組織を肯定的に捉え中華民国=立憲共和政体の中核たりうると構想したということだろう。これに対し毛沢東は宗族組織こそが封建社会の屋台骨であり、諸悪の根源である。これを解体しない限り封建社会は続くと考え、変質的なまでに執念深く地主潰しに奔った。毛沢東にとっての革命は地主から土地と権力を奪い取ることだった。かくして中華人民共和国、つまり共産党独裁権力が誕生したことになる。やはり共産党が独裁を続ける限り、その“礎”を築いた毛沢東を否定するわけにはいかないだろう。かくして毛沢東は共産党独裁の“記号”として、天安門の楼門上に南面して掲げられ続ける。なぜ南面か。古来、君主は南面し臣下は北面と定められているからだ。
毛沢東は中国全土から地主を一掃した。だが末端社会の支配・被支配の構図は変わらず、地主に代わった新たな支配層――共産党末端組織を牛耳る幹部――が生まれる。《QED》