――「支那人に代わって支那のために考えた・・・」――内藤(27)内藤湖南『支那論』(文藝春秋 2013年)

【知道中国 1726回】                       一八・五・初五

――「支那人に代わって支那のために考えた・・・」――内藤(27)

内藤湖南『支那論』(文藝春秋 2013年)

「五族共和」を唱えようにも、中華民国政府が漢人中心に進むことになり、「支那の政府というものがますます民主的に傾いて行くと同時に、ますます異種族の統轄力をば失って行くはずである」。

じつは歴史的に実態に則して考えるなら、「過大なる領土をもっておると、その経済力が漸々薄弱になって来るということは明かである」。では、なぜ清朝は統一を果たし得たのか。それというのも「支那という国は戦乱さえ二、三十年以上も無ければ、その国土が非常に肥沃で、物力が豊富であるがために、財政に余裕を請ずる国である」。つまり「清朝の統一は財力に因」ったというわけだ。であればこそアヘン戦争以降の欧米列強との戦費に過重な賠償金がのしかかり国庫が疲弊したことで、必然的に統一力の弛緩を招いということになる。かくして「五族共和ということも、事実上ほとんど意味が無」く、「大勢は解体する方に傾いておる」。

中華民国が掲げる「五大民族の共和」という方針は「一時の権道としては大いに面白いやり方であるけれども、結局これは実行の出来ぬ政策である」。

じつは漢人を除く満人、蒙古人、「回々教人」、それにチベット人は「存外に鋭敏な民族であるから、将来支那に頼って国を立てようという考えは、とうてい起り得るとは思われない。これらは皆支那から分離することは、将来の運命として、明らかに分っておることである」。

――ここまで語った内藤は「満洲の特別状態」の一項を立て、日清・日露戦争を経た後の「満洲における支那人」の動向について筆を進めるのであった。

たしかに満州は清朝帝室の根拠地ではあったが、当時すでに満州では満州族は限りなく少数勢力であり、山東省や河北省辺りから多くのクイッパグレ漢人が生存空間を求めて雪崩れ込んだことで、「満洲におる者はほとんど大多数は漢人ばかり」となっていた。漢人が満州に雪崩れ込む現象を特に「闖関東」と呼んだが、同時期に内蒙古一帯にも雪崩れ込んでいる。2002年前後、当時の共産党政権トップの江澤民は国民に向って「走出去(中国人よ、海外に進出せよ)」の大号令を掛けたが、あの「走出去」を一文字で表せば「闖」ということになろうか。いまや「闖全球」といったところ。じつに困ったことだ。

改めて指摘するまでもないだろうが、考えると日清・日露戦争前、すでに満州は漢人の土地となっていた。つまり「感情の上からは、支那本国と一緒になるべきもの」だった。だがロシアの満州進出が激しかったことから、日露戦争前には「満洲における支那人は、ほとんど遠からず、ロシアの支配を受けなければならぬものと覚悟をきめておった」。

ところが日露戦争の結果、豈はからんやロシアが負けてしまった。そのうえで「日本の兵隊の強いこと、また日本人は淡白な人民で、これに服従しても一向差支えないということをあくまでも承知しておる」ことから、「土着の人民というものは日本人に対して何の悪感情ももっておらぬ」のであった。「土着の人民」、つまり在満漢人である。

だが日本の当局者が不用意にも、「日露戦争以後に、かように大勢上外国の勢力に服従しなければならぬものと覚悟をした人物を以て満洲を支配させずに、日清戦争の経験も、日露戦争の経験もないところの支那の南方人、殊に近来『変法自強』などという意味の新教育を以て養成されたところの南方人を多く満洲の官吏として移入して来た」。彼らは「何でも外国人を排斥さえすれば、国家の独立が維持されるもののように妄想しておる新しい書生輩」であり、じつは「日本に対する感情、政策が、非常に日本に不利であった」。ならば当時の日本要路の中国理解は一知半解以下・・・だったということになるわけだ。《QED》


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