――「支那人に代わって支那のために考えた・・・」――内藤(15)内藤湖南『支那論』(文藝春秋 2013年)

【知道中国 1708回】                       一八・三・念四

――「支那人に代わって支那のために考えた・・・」――内藤(15)

内藤湖南『支那論』(文藝春秋 2013年)

「支那の時局について」の発表から1年弱が過ぎた大正2(1913)年7月1日の『太陽』に、内藤の「支那現勢論」が収められている。

建国からこの時点まで、中華民国の政治は袁世凱専制に向って進んだ。12年末の選挙で革命組織の同盟会を改組した国民党が圧勝し、袁世凱の政権基盤が動揺を来し、年が明けた13年3月には国民党の実質的指導者であった宋教仁が暗殺される。孫文を中心とする元同盟会メンバーなどが袁政権打倒を掲げ、13年7月に「第二革命」と呼ぶ武装蜂起を敢行した。ちょうど混乱のさなかに、内藤は「支那現勢論」を世に問うたわけだ。ちなみに、宋教仁の盟友で知られる北一輝は、宋暗殺の黒幕は袁世凱ではなく孫文だと主張している。この問題については、北の『支那革命外史』を読む際に改めて考えることにしたい。

いわば大混乱の最中に綴られた「支那現勢論」で、「袁に対する国民党の反対が激しく成って来て、否応無しに、威力を以て圧迫せねば、袁自身の地位さえ危険に瀕するところから」、「いずれの邦にも革命後には必然起るところの暗殺時代を生」ぜしめ宋教仁暗殺を決断した。それも「袁のごとき真の度胸なき政治家の取る方法としては、余儀無きことであ」る。「支那がとうてい統一せらるべきものとして考うる以上は、袁の態度は必然来たるべきものと見るより外に致し方は無いのである」が、「反対党というのも、意気地がないが、袁の政策も依然として無方針である」から混乱は続くと見る。そこで幕末の混乱を収拾し明治政府発足へと向かった我が国の動きと比較して、「気が早いだけに、日本は早く纏まったが、支那はも少し纏まりが遅いものと見ねばならぬ」として、日本的尺度で相手を捉えるべきではないことを説く。この点は、21世紀が18年過ぎた現在にも通じる警句だろう。

とどのつまり「統一も出来ず破裂もせぬ結果として、暗殺時代がさらに継続することは、毫も疑われない」。「支那人のごとく、元来、臆病な人間には、暗殺の利き目が一段と烈しいから、今後も随分と爆裂弾で以て、大勢を変化せしむるかも知らぬ」と予測した後、「不愉快に、不活発に、統一事業が進歩して行くというのが支那の将来である」と予測する。

また明治維新を例に、革命成功の暁には必然的に「外国の勢力に対する屈従時代」がやって来ると説き、中華民国においては「第一に借款条約で屈従し、第二には蒙古問題で屈従しかけており、いずれ、次には、西蔵問題で屈従するであろう」と、まさに「屈従時代に這入りつつある」としたうえで、日本政府は袁世凱派と孫文を軸とする反袁派の政争に深入りすることなく、「最も平穏に日本の東洋平和の政策を決定し、尤も安全にこれを実行するということは、甚だ必要であろう」。だからこそ、「屈従時代を利用する」というようなリアルな考えを持つ必要があろうと説く。だが「今の日本政府には、こういう考えのありそうにも思われない」。「日本では、朝野ともに支那の政争を野次馬的に眺めて、わいわいと騒ぎまわるものの、自分の国でも、そのために政府と民間と互いに理窟を言い合うて、自分の国で大いになすべきことのあることを遺却しておるかと思う」とし、「これくらい外事について気楽でなければ、近頃の大問題である財政行政の整理は出来ないのであろう」と皮肉る。中国問題のみならず「外事」は万事他人事なのだ。そう、昔も今も。

中華民国の混乱に関する見解は一先ず措き、「日本では・・・自分の国で大いになすべきことのあることを遺却しておるかと思う」とは、我が国で現在まで繰り返されてきた非生産的な中国論議の非生産性の原因を指摘した警句だと思う。たとえば最近の習近平による一強体制構築の動きに関しても、「自分の国で大いになすべきことのあることを遺却しておる」ゆえに、国会はモリカケ問題で空転を続け、働き方改革も頓挫寸前。メディアではハデに報道が飛び交う。情報は大量に生産され、大量に消費され・・・て、オシマイ。《QED》


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