――「支那は日本にとりては『見知らぬ國』なり」――鶴見(17)鶴見祐輔『偶像破壊期の支那』(鐵道時報局 大正12年)

【知道中国 1924回】                       一九・七・仲三

――「支那は日本にとりては『見知らぬ國』なり」――鶴見(17)

鶴見祐輔『偶像破壊期の支那』(鐵道時報局 大正12年)

アメリカの友人は「古きものに對する燃えるやうなあくがれを抱いて居た」ゆえに、「朱塗りの扉のついた支那家をさがした」のを皮切りに、いわば“支那趣味”にドップリとつかった生活を始めた。

某日、友人の邸宅に招かれる。「いづれ劣らぬ支那病の連中が、六七人來てゐた」。部屋の調度も、料理も、話題も、まさに「支那病」に完全感染だ。彼らにしたら、「無産階級だのプロレタリアなんてことは、どこを風が吹くと言ふ具合である」。そこで鶴見は、「支那の生活の空氣中に陶酔し乍ら、支那が外國人に對して有する『魅力』と言ふものについて、深く考えた」のである。

「元も支那を征服して、漢人種の生活美に征服せられた。清も支那を征伐して、漢人種の生活美に征伐せられた。そして、今西洋人が同じやうに、デモクラシーとか何とか言ひ乍ら、支那人が六千年かかつて築き上げた生活の美しさに魅せられて居る。一度北京に住んだが最後、もうその生活の味はひは忘れられない」。

その「漢人種の生活美」の一端を、鶴見は語る。

「北京の町を歩いてゐる時に、我々は全く時間の觀念を脱却してしまふ」。「我々は二十世紀の現状から解脱してしまふ」。「悠久な人文發達のあとを眼のあたりに見て六千年の文化の消長のうちに生息し乍ら、これが人生であると眼がさめる」。こうなるともう「十年百年の問題ではない。況んや一年二年の小なるをや」。かくして「支那人の落着いた、ゆつたりした心持が、やがて此の町に居る外國人の性急を征服して仕舞ふ」のである。

だが、だからといって北京の街が清潔で静謐なわけでは、全くない。やはり「生きた人間と動物」とが人を驚かす。動物は「愉快げに人間と同格で歩いて」いる。

「超然とした態度が、つら憎いほど、落ちつ」きながらラクダが行く。「その傍を驢馬に乘つた支那人が通る。幾十羽かの鶩を追ひ乍ら農夫がゆく。豚が路地から一散に走り出す。驢馬が牽いて通る支那車のうちに滿洲の婦人の髪飾りが見える。物賣の支那人が天も破れよと怒鳴り立てる。一人の客を見がけて、二十人の車夫が轅棒をつきつける。その混雜と不統一の壓巻として、黑帽黃線の支那巡警がノッソリ閑と町の真中に突つ立つて居る」。

おそらく彼らの文化――ここでいう文化は、《生き方》《生きる姿》《生きる形》だが――を表現するに最も相応しいことばは、「騒然たる統一」ではなかろうか。

今年は中華人民共和国建国70周年だが、この70年を振り返ってみても静謐と清潔の一瞬でもあっただろうか。建国直後の不正・汚職撲滅を掲げた「三反五反」運動から始まって、「抗美援朝」を絶叫した朝鮮戦争参戦、「百花斉放 百家争鳴」で形容された束の間の自由化と一転して進められた反右派闘争、餓死者の山を築いた大躍進、文革の予行演習ででもあったのような社会主義教育運動、文化大革命(「毛沢東の敵」は目まぐるしく代わったものだ)、やがて価値観が逆転した対外開放、際限なき挙国一致のカネ儲け路線・・・「中華民族の偉大な復興」であり、その果ての習近平一強体制下の紅色帝国――

こう簡単に振り返ってみても、かの国と人々は「騒然たる統一」の日々を生きてきたように思うが、やはり繊細なる無神経の持ち主なればこそ、というべきだろう。それにしても、「支那人の落着いた、ゆつたりした心持」と「騒然たる統一」とが、どんなカラクリによって矛盾なく交わっているのか・・・“絶対矛盾の自己同一”というヤツだろうか。

車窓から見える「茫々たる平野」。「その千里の平野は悉く人間の力を以て、耕しつくされて居る。いたるところ粗衣を身につけた支那の農夫が、無關心に土を耕してゐる。それは、この同じ農夫が、何千年の昔から、かうして働いて居たやうな氣がされる」。《QED》


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