――「『私有』と言ふ點に絶大の奸智を働かす國である」――竹内(13)竹内逸『支那印象記』(中央美術社 昭和2年)

【知道中国 1887回】                       一九・四・丗

――「『私有』と言ふ點に絶大の奸智を働かす國である」――竹内(13)

竹内逸『支那印象記』(中央美術社 昭和2年)

 首都である北京のどこにも中華民国の建国を示す「都市装飾の記念」が見当たらない。「現北京の主要なる名所地」を占めているは清朝盛時の建造物ばかり。しかも街を歩けば「頭の天邊に清朝遺臣の表號として豚の尻ツぽを遺して」いる姿が嫌でも目に飛び込んでくる。建物から人間まで清朝当時のまま。かくして「錆は地金にまで喰い入つてゐる」と。

 どうやら1911年の辛亥革命を経て建国された中華民国ではあるが、立憲共和政体という外皮の下は依然として清国のままだった。やはり、この国に立憲共和はムリらしい。伝統から離れようとしないのか。伝統が人々の日常に骨がらみに絡みつき逃れられないのか。伝統のしがらみが心地よいのか。

 北京を囲む豪壮堅固な城壁が僅か3年で建造されたと同じように、宮殿を囲む紫禁城もまた短時日で築造されたのだろう。だから主の居る間は「装飾や人間や儀式やらで燦然としてゐた」が、「一朝主を失つた借家となつた場合、例へ黃色の柱や瑠璃甍が遺つてゐるとしても、根が大味なんだから、何の風情もない」と、素気なく切り捨てた。

 清朝盛時の贅を尽くした建造物とはいえ、「一歩その内部へ踏込めば大味な建築の伽藍洞に過ぎない」。とどのつまりは「内面的に退嬰回想の享樂と形式主義の生活から生れ出た産物であることは否むことは能きない」。かくして「清朝宮殿に關する地域には私を喜ばせるに足る一ツの藝術も崇美もない」と“一刀両断”である。ダメのものはダメ、である。

 さて夜は「露店の居列ぶ前門大街」の京劇小屋に繰り込んだ。

 「劇場内が秩序整然として善美榮華が盡されてゐては、最早其處に支那劇の世界は半減されて了ふ」。「兎も角支那劇は電光燦然の劇場であつてはならない」。そのうえに客席は「無秩序同樣に滿員であらねばならない」し「蒸暑く、薄暗く、然も汗臭い」必要がある。そうでなければ「火繩の藝當も引立たない」し「汗だくだくの半裸體の輕業も變なもの」になってしまう。「さらには白樂天を先祖に有するこの國の名優が天心に響けと叫び上げるあの金切聲と、それを讃美すると言ふよりも應援する素敵!素敵!の聲とが、自他一致の境に於て轟然沸騰する喧囂の場面を現さない」。

 ここで竹内が「ホウ」とルビを振る「素敵!」の2文字だが、じつは「叫好」と呼ぶ大向こうから舞台の役者に浴びせられる「好(ハオ)!」――歌舞伎で言うなら「成田屋!」「中村屋!」「成駒屋!」「たっぷり!」の類である。

このように竹内の指摘を追ってみると、芝居小屋観察の鋭さに驚かざるを得ない。これまでも数多くの日本人が京劇についてウンチクを傾けているが、芝居小屋内の雰囲気――京劇鑑賞法――をこれほどまでに見事に言い当てたのは芥川の竹内の2人くらいだ。

芥川が中国を訪れたのは大正10(1921)年の春だから、時期的には竹内に重なることになる。上海でも北京でも、芥川は当時の中国でも第一級の「戯遊(しばいくるい)」との評価の高かった村田烏江や辻聴花などに京劇小屋に案内される。

「支那の芝居の特色は、まず鳴物の騒々しさが想像以上な所にある。殊に武劇――立ち回りの多い芝居になると、何しろ何人かの大の男が、真剣勝負でもしているように舞台の一角を睨んだなり、必死に銅鑼を叩き立てるのだから、到底天声人語じゃない。実際私も慣れない内は、両手で耳を押さえない限り、とても坐ってはいられなかった。が、わが村田烏江君などになると、この鳴物が穏やかな時は物足りない気持ちがするそうである。のみならず芝居の外にいても、この鳴物の音さえ聞けば、何の芝居をやっているか、大抵見当がつくそうである」と綴った後、「『あの騒々しい所がよかもんなあ。』――私は君がそう云う度に、一体君は正気かどうか、それさえ怪しいような心もちがした」と。《QED》


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