――「『私有』と言ふ點に絶大の奸智を働かす國である」――竹内(11)竹内逸『支那印象記』(中央美術社 昭和2年)

【知道中国 1885回】                       一九・四・念六

――「『私有』と言ふ點に絶大の奸智を働かす國である」――竹内(11)

竹内逸『支那印象記』(中央美術社 昭和2年)

 「兎も角も極東に於ける佛敎藝術の精華をなほ燦然遺跡の姿に於て荒寥の地に遺す大立物」である龍門に向かった。洛陽の駅で警察署長から20人の騎馬護衛隊を宛がわれた。「誰が敎へてくれたことかは知らないが、護衛兵と土匪とは當然黙契があるべきもの。一行4人のなかに「日本魂の凝り固つた豫備将校が1人。しかも彼の腰には「三本の秋水」。「アサヒビール十二本」と共に馬車で龍門の仏教遺跡を目指す。

 道すがら「馭者は文句を言ふ。護衛兵は酒錢を要求する」。だが心配は無用だ。「左手にビール瓶を握り、右手には秋水三尺がすらりと引抜かれてゐる」からだ。「一本の秋水のきツ先に怯へて二十人の護衛兵は物優しく微笑んで了ふ」。そこで竹内は考える。「支那を放浪する日本の豫備将校の剛氣は東京驛の前でタクシーにひらりと飛乘る人間には到底想像もつかないものであると」。かくして竹内も「負けず劣らずこの左腰に文明の凶器をぶらさげてゐた」というから、豪気なのか狂気なのか。

 「こんなにも古藝術の掘出シ物に取巻かれてゐる河南省の一市街」でのこと。「三尺の秋水」にモノを言わせて、「態々青銅佛贋造の隱シ屋を案内して貰つた」。「『觀てくれるな觀てくれるな』と泣ツ面の贋造屋」は竹内が店内に入るのを嫌う。結局、戸が閉められ、目的は果たせず。そこで「何を態々この古藝術發掘に極東で最有望の地河南省で贋物を造ることに專念してゐるのかと」考えた竹内は、「其處が支那だ!」と結論づける。

 おそらく「贋物と正眞正銘のものとの區別が、價格としては恐らく大ていは誤ツ茶になつて了つてゐるのだらう」。「此處にもまた支那が在る」というわけだ。

 ある日の暮れ方、竹内は「何處まで行つたつてダンス・ホールのやうに平坦なこの國」を走る小さな列車の車窓から目に入った黄河を、こう表現する。

「支那の宇宙觀、支那の思想や哲學、支那人の生活。それ等を幾千年來支配して來た多くの因子の一ツに數え得るのだらうこの黃河」「汽車で駛つて十餘分を要する練り水のやうな黃河」「果てしなき地から來て果てしなき地に流れ去る黃河」・・・その黄河は「今なほ吾々の科學的文明を蹴りのけて神話的實在が確かに蠢きながら貫流しているやうに思へる」。

 夏の済南を歩く。

日本に較べたら遥かに「堂々としてゐる」鉄道に出会う。北京を起点として運行される広軌列車だ。「かうした汽車に乘り、或は打ち眺めて、一方支那人の實生活を味ひ、或は觀察してみると、この兩者に何等の連絡が無い」ことに気づかされる。それというのも、これらの広軌の鉄路は「殘らず異國人の投資と努力とに依つて完成されたものであ」り、「殘念ながら、支那人はさうさう威張れない」のだ。

「異國人の投資と努力とに依つて完成されたものである」からして、各路線の接続は悪い。加えて沿線の雰囲気は敷設した国の影響に左右されている。たとえば北京と漢口を結ぶ京漢線で北上する場合、漢口までは自由に通じていた英語だったが、漢口で乗り込んで以後はフランス語となる。「恰度これは、楊子江沿岸がアングロ・サキソンの勢力範圍であるに反して、長江以北は、さう都合よく行かないことを示すものであらう」。

山東省を走る鉄道では「曾ては異國語として獨逸語のみが通じ、一時期日本語が通じ、滿鐵の前身も露西亞語のみが通じてゐたことのあるのは言ふまでもない」。かくして北京と奉天を結ぶ京奉線では「刻々日本語の數が増して來る。そして滿鐵。俄然日本語の市場だ」。「日本語の市場」の拡大はそのまま日本の影響力の拡大を意味する。列強が利権争いを続けてきた広大な大陸に、日本もいよいよ本格参入することとなったわけだ。《QED》


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