――「『私有』と言ふ點に絶大の奸智を働かす國である」――竹内(2)
竹内逸『支那印象記』(中央美術社 昭和2年)
上海に上陸する。
「地理敎科書としての上海は別として、漠然上海なるものを考へて見ると、恐らくこれは地中海に於けるマルセーユと言ふべきであらう。若しまた支那が長江を先として二ツに國家を組織した場合、上海はロンドンとも東京とも成つて、先づ南京が京都と言ふ資格を得るかも知れないが、現状に於て、北京の存する間、さうは行かない。と言へば日本に於ける神戸か橫濱か」。だが、「神戸や橫濱には『日本』は無い」。だから「その意味に於て上海は遥かに土生的だし、支那としての人間生活が渦を巻いてゐる」。そこで上海を「先づ大阪と言へやう」と捉える。だが上海と大阪には大きな違いがある。「人種的に、國際的に複雜な點は到底大阪はそれに及ばない」のである。
「若し『上海の美』とは何であるかを問ふなら、恐らく、それは、長江と支那海を控へた土生的上海が、人種的に國際的に錯雜した拝金的灼熱の光彩だらう」。「近代人にとつては、明白にこれも美である」ところの「拝金的灼熱の光彩」に「憧憬れ、或は魅せられ」て上海に引き寄せられるのは、「強ち商人のみには限られてはゐない」。「常に錯雜には灼熱の美とその輝きがある。寧ろ近代人は、その美を追究して止まないやうである」。
竹内が「拝金的灼熱の光彩」と捉えた上海の「人口の九割強は支那人だと言ふことで」あり、それゆえに「街頭は支那人の雲集である」。そこで「在留外人の半數を占めると言ふ吾々」「日本人の上海に於ける生活」だが、「その現状は、日本の都市に於ける場末の朝鮮人生活と大して變りはない」。もちろん「吾々の領地ではないのだから、どうでもいゝやうなものゝ、威張れないことだけは事實である」。
「それとは反對に、歐米人なんて隨分厚釜しい人間と考えさゝれる」ものの、「上海に於ける歐米人の商業上の將來を矢鱈と悲觀してゐた」。その背景を考えると、「由來個人的悲憤慷慨のみを享樂してゐた東方人が、結團と實證とに眼を開いて來た」からだ。かくして「歐米人に言はせれば、飼犬に手を噛まれると言ふことになる」わけだ。
そんな上海を散策する。
「支那料理を鱈腹食つた月明の夜、ハヴアナ一本を啣えて俥に揺られてゐれば、まさに上海はいと住心地よき天下の市街である」。
「天下の市街」に雲集する「等しく人生の行旅に於ても永久に浮ばれさうもない苦役、賭博、亞片、質屋、燒野鴨屋、娼樓、棺箱屋、泥棒市場・・・・・。どうしてどうして、支那では、人生が飾りツけ無く街灯を装飾してゐる」。だが、「それが支那だ。上海だ。それが都市の美觀だ。つまり曖昧はすべていけない」。やはり上海は「拝金と言ふ着眼點に對して突進する自然統一への人工的美、即ち物質文明の美、近代的美である」。だから「例へ疊一疊敷大の極彩色ポスターを壁面に幾十枚貼らうが手ごたへもない」。それすらもが「明白に美觀として訴える」のである。
「排日運動旺盛な季節であつた爲か」、上海の繁華街を歩く和服姿の竹内は「一團の支那學生に堰きふさがれて」、彼らが手にするステッキで強打されたことは、やはり「不愉快な一件」ではあった。にもかかわらず上海は「寧ろ、私にとつては、讃美すべき都市であ」った。かくて竹内は「若し支那をPublic Parkと取扱ふなら、上海は差當り演藝館としての役目に在るだろう」とした。
「演藝館としての役目」を担う上海には、「錢!錢!錢!で集まつた世界の人間」が顔を揃える。「誰れだつて集る處へ集りたがるものだ。だが、支那人は、尚更集りたがる」。であればこそ「無關心。無關心。これが支那旅行の元締」ということになる・・・のだ。《QED》