――英国殖民地だった頃・・・香港での日々(香港94)

――英国殖民地だった頃・・・香港での日々(香港94)
【知道中国 2212回】                       二一・三・仲六

――英国殖民地だった頃・・・香港での日々(香港94)

 

ロンドンの中華料理店の同じ文一族の店主から賃金の前払いの形で旅費を受け取り、新田村の若者たちは勇躍として香港を離れる。こうして移住関連事務手続きなどの経験を積み重ね、そのノーハウが一族に蓄積され、一種の財産として一族内で独占的に共有される。これが、いわば門外不出の一族繁栄の“原資”というわけだ。

もちろん、汗と涙で積み上げた一族の宝を他の一族に伝えることはない。これを裏返せば、他の一族も同じようにして移住やら職業斡旋に関する独自の情報やネットワークを持っていて何らの不思議もない。新田村の文氏一族だけが特別というわけではないのだから。

ロンドンのチャイナタウンでの中華料理店が飽和状態になるや、ロンドン以外の都市に商売を広げようと動き出し、イギリスの地方都市に一族系列の中華料理店が展開される。ビジネス・ネットワークが張り巡らされ、結果としてイギリスの全土の中華料理店業界は文氏一族が独占的に経営することになる。

やがて文氏一族による中華料理店ネットワークは、ドーバー海峡を越えてヨーロッパ大陸に進出するまでに成長する。かくて新田村の若者は、イギリスを中心にしてヨーロッパに張り巡らされた一族の就職ネットワークを頼って香港を離れるのであった。

一族の店舗で人手が不足したら、経営者は新田村の一族――つまり《自己人》――に関する法的な身分保障をし、イギリスに呼び寄せることになる。

香港新界の貧しい農村に過ぎなかった新田村の文氏一族が生きていくために香港を飛び出した結果、ロンドン、イギリス全土、ヨーロッパ大陸を繋ぐビジネス・ネットワークを築き上げるのであった。

中国大陸であれ海外であれ、移り住んだ先で漢民族が生きていくことができるのは、文氏一族にみられるように、血縁(文氏一族)と地縁(新田村)と業縁(イギリスの中華料理店)とが強固に合体した相互扶助組織があるからこそ、ということになるだろう。

殖民地化前後にイギリスが建設した香港最古の西洋式道路で、香港島をヴィクトリア湾沿いに走る皇后大道(クイーンズ・ロード)のうちの西環(サイワン)、湾仔(ワンチャイ)、銅鑼湾(トンローワン)、北角(パッコ)などの地区で老朽化したビルの上層階の窓や壁に某々宗親会とか、某々同郷会とか、某々同業会などの文字を目にする。この種の民間の相互扶助組織がまるで毛細血管のように張り巡らされ、彼らの社会を支えてきたのだ。

だが、古くから続く民間における相互扶助の仕組みは共産党統治下の大陸でも認められるのだから、なんとも不思議だ。政治とは別次元の民族的体質とでもいうのだろうか。

その典型とも思える1990年代末の北京に出現した「浙江村」と呼ばれる地方出身者の集団居住地区について、ある日本人記者は次のように記した。

「長江下流域の南側にあたる浙江省の出身者が固まって寝泊まりしているところから、この名前(「浙江村」)がつけられた。〔中略〕多くの住人は(浙江省の)農村部から一家ごとに上京し、北京で商売をはじめた“にわか商人”だ。〔中略〕『都会で商売をして一旗揚げよう』と人々が農村を後にする。〔中略〕もうけの大きそうな北京に流れこんできたのだ。浙江村の男は絹などの繊維産業の盛んな浙江省の各地から布を仕入れ、女がミシンで洋服に仕立てる。出来上がった洋服を男がまた売り買いする。浙江村には、こうしてできた格安の洋服が路上で売られている。村には自前の学校から理髪店、浙江料理の店まで生活に必要なものは何でもある」(村山宏『異色ルポ 中国・繁栄の裏側 ――内陸から見た「中華世界」の真実』日本経済新聞社 2002年)

香港新田村の文氏一族にとってのロンドンの中華料理店、浙江省の農民にとっての北京の浙江村・・・異郷で生き抜くための草の根のカラクリに、やはり違いはない。《QED》

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