――英国殖民地だった頃・・・香港での日々(香港71)

――英国殖民地だった頃・・・香港での日々(香港71)
【知道中国 2189回】                      二一・一・念六

――英国殖民地だった頃・・・香港での日々(香港71)

 

1941(昭和16)年12月から1945年8月15日までの3年8か月の日本統治時代はもちろんのこと、国共内戦期(46年~49年)、朝鮮戦争期(50年~53年)を経て共産党政権成立前後の香港で、日本人はどのように過ごしたのか。

目下のところ、その辺りの事情を窺える確たる材料は手許にはない。そこで元香港総領事(68年~72年)の岡田晃が著した『香港 ――過去・現在・未来――』(岩波新書 1985年)の次の一節を引用するに止めておく。

「一九五一年九月、サンフランシスコ平和条約が結ばれた。翌五二年四月、私は日本総領事館を開設する準備をするため同僚とともに香港を訪れた。/香港に到着すると雪廠街(アイスハウス・ストリート)の二十二号、ドゥデル街の階段を上りつめた角に、ユニオン・ホテルという四、五階建の古ぼけたホテルがあった。日本軍の香港占領中は、日本人がこのホテルを経営していたものなのか、入口のドアーに『松原旅館』(?)と半ば消えかけたような薄汚ない文字が読み取れた。/当時は既に朝鮮戦争が始まっており、一九五一年二月には中国に対する『侵略者決議』が国連で通っていた。したがって中国への戦略物資輸出禁止措置がとられ、そのウラでは香港を通ずる中国貿易が次第に経済界の注目を浴びてきていた。香港船主がどんな小型の船でも良いからとその買い付けに狂奔し、中国大陸への物資輸送に血路を上げ始めていた。/当時の在留日本人は、新聞社では毎日新聞の杉本要吉特派員、貿易業界では交洋貿易の奥野博司氏、三井物産の脇田五郎氏など二、三名しかいなかったものである」。

さて、「松原旅館」は誰が経営し、どんな日本人が使っていたのだろうか。

閑話休題。

香港留学でお世話になった第一日文のY先生(2150回参照)は、敗戦で中国大陸から香港に逃れた後、数年間を中国人として暮らしていた。Y先生は上海の東亜同文書院では岡田の後輩に当る。それだけに当時の香港の日本人の動静について詳しかったはず。同じく第一日文のD先生(2151回参照)も当時の香港を拠点にした反共勢力の運動については、それに連動した日本国内勢力の動静も含め知悉していたと思われる。両先生の存命中に詳しく話を聞いていたら、香港を舞台とする日・中・台のネットワークが描けただろうに。

サンフランシスコ平和条約が結ばれ独立した後も、日本にとっての「中国」は台湾に逃れた蔣介石率いる中華民国であり、共産党政権が率いる中華人民共和国ではなかった。共産党政権は正式に国交を結んでいなかった日本に対し、積極的な政治工作を展開する。日本のノー天気な政財界人や「進歩的文化人」と呼ばれた一群の学者、文学者、演劇人、マスコミ関係者などを大量に「新中国」に招待(トラップ)し、彼らを煽てあげ洗脳し、帰国後に「赤い国」の素晴らしさを日本国内で宣伝させようとしたわけだ。

国交がなかっただけに、東京から北京まで直航するわけにはいかなかった。そこで経由地として選ばれたのが香港である。イギリスは日本とも中華人民共和国とも国交があるから、日本から殖民地・香港に飛んだ後、香港から鉄路で「赤い国」に入り、その後、共産党が定めた“定番コース”で各地を参観し、しっかりと洗脳工作を受けたのである。

アゴ・アシに加え“お小遣い”まで付いた「赤い国ツアー」で、どのような経路を経て中国共産党御用達宣伝員仕立てられるのか。この問題については、すでに詳細に論じているので、関心のある方は「943回」から「1115回」の再読をお願いしたいところだ。

彼らは「赤い国」への往復に香港に立ち寄り、愚かに自らの無知を曝け出すように香港を“罵倒”したのだ。そこで我が国東西の最高学府で教鞭を執る一方、昭和20年代から40年代の日本の“代表的知性”と持てはやされた2人の香港評を取り上げておきたい。《QED》

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