――英国殖民地だった頃・・・香港での日々(香港61)

――英国殖民地だった頃・・・香港での日々(香港61)
【知道中国 2179回】                      二一・一・初三

――英国殖民地だった頃・・・香港での日々(香港61)

 

結局、村岡は「香港ではたいした仕事にもありつけないので、明治十九(一八八六)年三月末、そこを引きあげることにいたし、ワイチバキ号というモリス商会の船に頼んで、水夫として同勢十二名とともに乗り込んだ」。しばしの船員生活を送っている。

その後、村岡が中国、東南アジア各地を渡り歩いて続けた女衒稼業の顛末についてはともかく、香港に関する部分を追ってみたい。

日露戦争直後の1906(明治39)年、香港で殺人事件があった。香港に巣食っていた日本のヤクザの縄張り争いが発端とのことだ。

「同地の遊び人のあいだに、下関と長崎の両組があり、その間に縄張りの争いがあり、下関のほうは鈴木で、その子分が、長崎の大高の子分に殺されたのである。大高の子分の荒木は投獄され、後に残った五十人以上は日本へ送還されることとなった。ところが鈴木の子分が、長崎円山町の大高用一親分方へ乗込んで仇討をし、その後香港へ再渡航して、大高の縄張りを占領しおった。それを、大高の一の子分の時松が残念に思い、二、三十人の者を引き連れてふたたび香港へやってきた」。

ここまで読むと、香港にまで出張っていた下関と長崎のヤクザ組織――どちらも女郎屋稼業で成り立っている――が縄張り争いで対立し、その因縁が日本に“フィードバック”され、江戸ならぬ香港の仇を長崎で討ち果たし、その勢いを駆って香港に乗り込んで、相手のシマを奪い取った。すると今度はメンツを潰されたうえに“米櫃”を強奪された長崎側の時松が「ヤローども、命はオレが預かった!」と、海を越え香港に殴り込んだ。

なんだかまるで70年全共闘世代が好んだヤクザ映画の世界だ。古典的東映任侠路線ならキャストは高倉健、鶴田浩二、池部良など。深作の広島戦争実録モノなら菅原文太、松方弘樹、梅宮辰夫、金子信夫に川谷拓三・・・。

香港の日本人経営の女郎屋のシマを巡って下関と長崎のヤクザ組織を巻き込んでの大立ち回りを演じようという勢いだから、事の経緯はともかくも、日本人がヤケに元気だった時代の物語と言える。ここで自称「ドクトル平岡」が“時の氏神”として登場する。

「そこで双方がたがいに機会をねらい、血の雨を降らす準備をしておるので、香港の宮野と梅谷から各地の顔役に手紙を出して、仲介の労をとって貰いたい」ということになった。「そのころ各地の顔役をしておったのは、ラングーンでは小林、コーランポでは福平、シンガポールでは鈴木、バンコックでは寅、厦門では荒木、オーストラリアでは青木俊さん、上海では峰、ピナンでは野富、デリでは幸吉、ウジョンパンシャンではナマ梅、香港では宮野、梅谷の諸氏であった」そうな。

ということは、平岡が名を連ねた各地――ラングーン(現ヤンゴン)、コーランポ(=クアラルンプール)、シンガポール、バンコック、厦門、オーストラリア、上海、ピナン(ペナン)、デリ(=ブラワンデリ)、ウジョンパンシャン(=ウジョンパンダン)――に日本人の親分サンが盤踞し、それぞれが女郎屋稼業ネットワークを構成していたということだから、話半分としても剛毅な時代、いやハチャメチャに元気で無鉄砲な時代だった。

結局、2か月を費やしても双方が折り合わず、最終的には平岡が乗り出すこととなりマニラから香港まで出向き、「縄張りの区分け、死亡者の葬い、入獄者の手当まで」の条件を提案し、「九州、上海から出発する女は長崎の親分支配とし、日本本島からくる女は下関の親分の支配とすることを書き記し」などして手打ちとなった次第だ。

再度言うが、事の是非善悪は別に、ヤクザまでが“海外に雄飛”し、縄張りを広げんと東南アジアを舞台に切った張ったの大立ち回り。ならば、かつて子供たちが「冒険ダン吉」の世界に心を躍らせる下地も、この頃から生まれるようになったのではなかろうか。《QED》

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