――英国殖民地だった頃・・・香港での日々(香港57)

――英国殖民地だった頃・・・香港での日々(香港57)
【知道中国 2175回】                      二〇・十二・念五

――英国殖民地だった頃・・・香港での日々(香港57)

 

一行の香港滞在は9月10日から18日まで。この間、アヘン戦争関連情報に接したが、西欧列強のアジア侵攻の狙いを見抜き、殖民地の悲哀を痛切に思い知っただろうか。

英華書院を尋ねた者がいた。すでに日本でも名前を知られていた学校だとのことだが、おそらくは『遐邇貫珍』『六合叢談』を求めたのだろう。日本における新聞文化の先導役を果たしたと言わる『遐邇貫珍』の発行元が「香港中環英華書院」だった。

ところが「学徒僅に三、四十人許にして、極めて寂寥」であり、どうにも要領を得ない。英華書院が発行している他の本を求めたが、あまり芳しい返事が聞かれない。そのうえに「尤書籍至て乏しく且貴し」と言うから、期待したほどの収穫が得られなかったのだろう。そこで致し方なく『華英通語』を買ったものの高すぎた。「我国にて銀一朱位の書籍なり、その貴きを知るべし」(『航米日録』)である。

『華英通語』は、清国人の子卿がサンフランシスコで発行した華語(広東語らしい)と英語の対訳単語集。じつは遣米使節に参加していた福沢がサンフランシスコで同書を購入し、帰国後に再版している。その際、印税はどうなっていたのかなどと詮索するのは、やはりヤボな話だろうか。

15日、一行の1人が上陸し、香港停泊中の米船で働いている日本人と面談し、事情を聴取した。彼の名は亀五郎。35歳で安芸の出身。24歳の時に江戸からの帰路に熊野沖で難破し、距離で600里、日数で50日間ほどを漂流した後、米船に救われた。漂流仲間17人のうちの1人である浜田彦蔵は米に帰化している。これが後に神奈川で日本初の新聞『新聞誌』(後に『海外新聞』と改名)を発行することになるジョセフ・ヒコだ。

じつは亀五郎は遣米使節一行のサンフランシスコ滞在時、一行の宿舎に何回か出向いたが、鎖国の禁を犯したことを咎められることを恐れ、面会を果たせなかった。水夫として働いている船が横浜に立ち寄ることから帰国しようと乗り込んだ。寄港地の香港で遣米使節の滞在を知ることとなり、アメリカ人の仲介で面会を申し出たのである。

その時の亀五郎は「形粧総て西洋の服を着し殆んどポルトガル人の如し、言語も又用ゆる事能わざれば十に一つは解せずと見ゆ」(『航米日記』)。どうやら日本語も忘れがち。

じつは漂流民の中でも外国の風に馴染んでしまい、帰国を果たしながらも、故郷では漂流以前の生活にシックリと戻れなかった者もいたようだ。そこで力松などは最終的に帰国を断念し、異国生活を選ぶこととなるわけだ。もちろん帰国した者も外国に留まった者も、漂流という不可抗力によって外国生活を余儀なくされたとは言いながらも、鎖国を破ったことに対する後ろめたさからは逃れ難かったらしい。

幸い亀五郎は香港の米領事、江戸の米公使の差配で帰国を果たしたとのことだ。

当時、欧米列強がアジアにおける覇権争いのための橋頭保としたシンガポール、マカオ、香港、それに上海は、日本人漂流民が帰国を果たすための最終拠点だった。そこには帰国を断念し異国で一生を送る道を選びながら、帰国を望む漂流者の支援を買って出る者――英国商社に勤務する者、聖書の翻訳に携わる者、新聞社で働く者など――が居住していた。当時の香港で、日本人はそうやって生きたのである。

香港出港から2日後の20日、一行の乗った船は針路を北にして遥かに台湾島を眺める。

副使の村垣淡路守が「台湾はやや蝦夷しまほどもあるべし、気候よろしければ物産多し、云々我版図に入るならば国力盛大なるべしと思う」(『村垣日記』)と記してから30年が過ぎた1895年、日清戦争終結を約した下関条約で台湾は「我版図に入」ることとなった。

琉球沖を過ぎ、27日には伊豆七島と富士山を眺め、やがて横浜経由で品川沖に停泊。10か月ほどの大旅行を終え、「畳の上に平座して再生の心地也」(『村垣日記』)とか。《QUE》

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