――英国殖民地だった頃・・・香港での日々(香港31)

――英国殖民地だった頃・・・香港での日々(香港31)
【知道中国 2149回】                       二〇・十・念二

――英国殖民地だった頃・・・香港での日々(香港31)

 

司馬?以上に衝撃的だったのが、第一日文校長のT先生との出会いである。いや、“激震”は別れの後にやって来たと言うべきだろう。

T先生は湖南省長沙の生まれ。日本の陸士で徹底して鍛えられただけに、日本語は完璧で日本に対する造詣は生半可ではなかった。日本軍影響下の長沙で市長だったと言うから、日本軍に篤く信頼されていたに違いない。柔和な物腰ながら凛とした佇まいは「元大日本帝国軍人の矜持」を漂わせていた。

大好物の煙草をくゆらせ、これまた大好物のビールで喉を潤しながら、時に陸士時代の親友である「垠クン」の思い出が続く。「垠クン」とは李氏朝鮮の最期の血統で、伊藤博文に抱かれて日本にやってきたと言われる李王垠殿下である。興に乗ると自慢の喉で京劇の一節を唱ってくれた。十八番は『空城計』で“我正在城楼、観山景、耳聴得城外、乱紛々・・・”と譚派の調子で。政治向きの話はあまり好まなかったが、紹介してくれる人々には国民党系が多かったように記憶する。

香港留学を切り上げた後も、香港に出掛けた折にはビールで一刻を過ごした。もちろん「?子不在家(ノドの調子が悪い)」などと言いながらも、時には京劇の一節が飛び出した。

  

ここまでは平凡に過ぎる思い出である。だが、先生が亡くなった後に偶然に知ることとなった先生の“もう1つの顔”は、平凡ではなかった。

ある日、買ったままで積んでおいた『中国獄中二十五年 奇跡の日本人』(斎藤充功 学研M文庫 平成14年)をパラパラと読み始めたところ、あるページで目が点に。そこにT先生に関する衝撃の記述を認めたからだ。

中国共産党が建党された1921年に浅草・千束に生まれた平井栄三郎は18歳で上海に渡り、やがて日本軍の先兵として宣撫工作に携わり、後に中国人の袁昌亜として潜行生活を送る。日本が破れた1945年の12月初めに袁昌亜は漢奸として逮捕され、その日から「九千日に及ぶ数奇な中国獄中生活」を余儀なくされる。それというのも、国民党政権も共産党政権になってからも、中国側は一貫して平井を「漢奸の袁昌亜」と見做していたからだ。

過酷な獄中生活で平井が世話になったのが「かっぷくのいい六十歳くらいの紳士」で、「運転手と秘書と三人で入獄してきた」。それが唐炳初で「東京高等工業の電気科(現・東京工大)を卒業しており、日本語がうまく」、「孫文とも交流があり、当時湖南省政府の顧問のようなしていて有名人であった」。「共産党のシンパ」で、「監獄に入ってきたのは息子を逃亡させた罪だった。息子は長沙市長の要職にあり、共産党の情報工作員でもあった。終戦時、国民党にその素性がばれ手配されたことをいちはやく知り、香港に逃亡してしまったため、父親が身代わりになった」というのである。

T先生と同じ姓で、しかも「息子は長沙市長」。だとするなら、私が香港で日常的に接していたT先生は「共産党の情報工作員でもあった」と考えても不思議ではないだろう。

かつて唐炳初の屋敷で働いていた「料理人は実は人民解放軍が紅軍として旗揚げした江西省井岡山で毛沢東や朱徳と連絡をとっていた共産党の幹部」であり、国民党特務機関による逮捕を逃れることが出来たのも、唐炳初が機転を働かせたからだ。共産党政権成立後、唐は指定された上海の第三野戦軍司令部に出向く。「あなたは私の命の恩人です」と出迎えた司令官は唐の屋敷で料理人をしていた男で、後に初代上海市長、国務院副総理を務め、「十代元帥」の1人とされる陳毅だった。

温厚篤実な紳士であったT先生の、共産党との因縁浅からざる“もう1つの顔”を偶然にも知ったわけだが、偶然は重なるもの。当時、体調不良だったことから友人に紹介され訪ねた漢方の平井先生が、「奇跡の日本人」その人だった・・・とは。人生は不思議だ。《QED》

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