――英国殖民地だった頃・・・香港での日々(香港162)

――英国殖民地だった頃・・・香港での日々(香港162)
【知道中国 2280回】                       二一・九・念六

――英国殖民地だった頃・・・香港での日々(香港162)

 時代はやや下って、日本軍が破れた後の中国である。どのようにして新たな中国を打ち立てるべきか。延安の毛沢東に向かって、?介石は会談を呼びかけた。そこにハーレー在華米大使の仲介が入り、1945年8月末、毛沢東は周恩来ら幕僚を従え重慶に降り立つ。以後、40余日のマラソン交渉の末、同年10月10日の双十節に?介石と毛沢東の間で合意文書が取り交わされたのである。

調印日に因んで「双十協定」と呼ばれる取り決めでは、来るべき中国は?介石の指導下に建設されると謳われている。だが毛沢東は交渉を重ねる一方で、内戦必至を想定し、第一段階としての旧満州制圧に動いていた。まさに「談談打打、打打談談」――交渉しながらのドンパチである。話し合いは戦場での戦いを有利に展開するためであり、戦場でのドンパチは話し合いを有利に進めるため。「談」と「打」は戦として一体不離なのだ。交渉のテーブルもまた戦場なのである。

交渉が山場を越えた頃、毛沢東は?介石夫妻を招き、京劇一座の�家班に命じて「覇王別妃」を演じさせた。一見すると交渉成立を前にした長閑な風景のように受け取れるが、?介石を敗れ去る項羽、夫人の宋美齢を虞美人に、そして最後の勝利を手にする劉邦を毛沢東に見立てるなら、毛沢東は?介石に向かって「アンタの将来はこうなるよ」と暗示したも同然だった。

であればこそ、「覇王別妃」を見終わった時の?介石夫妻の心境や如何に。項羽が垓下に敗れ去ったと同じように、まさか台湾に落ち延びることになろうとは思わなかったであろうが。

それから3年ほどが過ぎ、国共内戦は毛沢東の勝利に傾いた。

ここからは完全に第六劇場と離れるが、建国直前の北京の雰囲気を、些か芝居仕立てで・・・。

建国から半年ほど遡った1949年4月某日、京劇関係者たちは毛沢東と中国共産党中央の北平(北京)入城を歓迎するため、毛を筆頭とする共産党幹部を京劇公演に招いた。

時の流れに敏感でなければならないのは、芸人もまた同じ。新しい権力者に靡いたとして、誰に非難されるわけではない。彼らは、新しい権力者に対する“恭順の意”を逸早く示したかった。いや、新しいパトロンを求めようとしていた。どちらにしても、毛沢東が戯迷であることを十分に読んだうえで取り計らったに違いない。

 その日の夕暮れえある。いつもより早めに夕食をすませた毛沢東は、郊外の景勝地である景山の西南にあり、かつて孫文も住んだといわれ双清別墅の庭を散歩していた。自らの命令で党中央と軍司令部を置いたこの別荘で、敵のスパイや陰謀から身を守るために配備された100人ほどの精鋭公安部隊に囲まれて、国共内戦の最後の勝利、いいかえるなら“新しい中国”の建国の瞬間を待っていたのである。

 庭の一角にある六角形の亭子を背にして南側を向けば、池の向こうに防空壕が見える。毛沢東が住むというので、華北軍区の工兵隊によって掘られた防空壕の入り口には、「毛主席万歳」の5文字が刻まれていたというから、そこだけが「庭園の中の庭園」と形容される双清別墅には相応しくないようだ。

たしかに「庭園の中の庭園」に防空壕とは、なんとも野暮な取り合わせだが、当時、国民党軍の空からの攻撃も十分に考えられていたからこその措置だっただろう。

内戦開始時の46年7月時点での国共両軍の兵力を見ると、国民党軍の430万人に対し共産党軍が120万人だった。それが1年後の47年7月には370万人対195万人と接近し、49年6月になると115万人対400万人と完全に逆転していたのである。《QED》

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