――英国殖民地だった頃・・・香港での日々(香港201)
ここで「平和・発展・公平・正義・民主・自由の全人類共同の価値」が新型コロナ感染発生以後の習近平政権が掲げる外交方針に重なってしまう点を、再確認しておきたい。どう転んだところで、京劇は政治の網から逃れられそうにないということだろう。
「夫人城」の韓太夫人に勝るとも劣らない英雄振りを発揮するのが、同誌2021年10月号が特集した現代京劇「母親」の主人公である葛健豪――パリと上海を舞台に展開される中国共産党による革命運動に奮闘した老女性革命家――である。
彼女は1865年に湖南省に生まれた実在の人物で、生家は19世紀後半の清朝を支えた湖南省出身軍人・政治家の曽国藩の一族に連なる名家であり、纏足の一生は当然視されていた。だが名家出身ながら封建社会の旧弊に抵抗し、反清革命に殉じた女性革命家の秋瑾とも血縁だったと言うから、筋金入りの闘士とも言える。かくして纏足が象徴する封建社会の桎梏に人生を賭して徹底して抗うことになる。
彼女の息子は毛沢東と共に中国社会の変革を掲げ創生期の共産党に参加し幹部を務めた蔡和森、娘は早い時期の数少ない女性共産党員で1949年には中華全国婦女聯合会主席に就いた蔡暢である。蔡和森の妻は初期の女性党員で党中央委員会婦女部長(1922~27年)を務めた向警予であり、蔡暢の夫は共産党中央書記処書記・中央常務委員、中央政府で国務院副総理(1954~75年)などを歴任した李富春――言わば“極上”の共産党一家となる。
息子に嫁、娘に婿――彼女の4人の子どもは、共に創生期から毛沢東時代の共産党を支えた筋金入りの共産党幹部だった。まさに彼女は封建根性が骨絡みのダメな夫を棄て、母親として共産党一家の頂点に立った・・・勇ましい限りではないか。
彼女は封建的な忍従の人生を嫌い、50歳を前に湖南女子教員養成所に学び女子教育の道を歩み出す。1917年に引っ越した長沙の家には毛沢東ら青年が転がり込み、革命青年の梁山泊と化した。翌年、蔡和森は毛沢東らと新民学界を組織し、社会変革への道を突き進む。
五・四運動が起きた1919年、54歳になった彼女は蔡和森、蔡暢、向警予らと共に勤工倹学運動に参加しフランスへ向かった。この運動参加者中最高齢であったことはもちろんだが、当時の中国における社会的常識では54歳は“立派な老女”だろうに、また、なぜ革命家の茨の道を・・・何が彼女をそうさせたか、である。
1921年に帰国し湖南省で女子教育に努めた後、武漢、上海で家族の革命運動を支援する。その後、共産党に対する攻撃が激しさを増すなかで湖南省に逼塞し、1943年に病死した。
“革命のオッカサン”といった存在だろう彼女の死を知り、毛沢東は「老婦人、新婦道、児英烈、女英雄(老婦人による新たなる女性の道。児=息子は英烈で、女=娘は英雄)」と言う最大限の賛辞を贈り、その死を悼んだ。なお蔡和森はソ連から帰国直後の1931年6月、香港政庁に逮捕され杭州に護送された後、処刑されている。彼女は息子の刑死を知らない。
同誌では、新編現代京劇「母親」を「中国婦女子の優秀な代表である葛健豪の強靱で挫けることのない個人的奮闘と千変万化する革命の歩みを底流とし、演劇性と現代化された舞台を生み出すことで、英雄的母親の葛健豪と革命の後継者である蔡和森、蔡暢、向警予ら共産党初期の創設者や指導者の知られざる家族生活、勤工倹学運動に参加した経緯、革命のための戦いのなどの歴史を描き出し、あの新旧交代局面に加え殺戮の血で塗られた紅色革命の時代に観客を誘う」と、大仰な表現を重ねて解説する。
なにやら過激な表現が繰り返され戸惑うばかり。「英雄的母親である葛健豪と革命の後継者である蔡和森、蔡暢、向警予ら共産党初期の創設者や指導者」の奮闘の姿を描くことで、現在の芸能界から国民に瀰漫する「いびつな美意識」を一掃し、「殺戮の血で塗られた紅色革命の時代」を想起し、新たなる革命の時代に立ち向かえ、とでも訴えたいようだ。《QED》