――英国殖民地だった頃・・・香港での日々(香港146)

――英国殖民地だった頃・・・香港での日々(香港146)
【知道中国 2264回】                       二一・八・廿

――英国殖民地だった頃・・・香港での日々(香港146)

 思い起こせば今から65年ほどの昔、テレビで見たのが京劇との最初の出会いだった。

靠(よろい)を身に纏い、背中に三角形の靠旗(はたさしもの)を4本挿し、左手に長槍を、馬を表す馬鞭を右手で打ち振りながら登場した武生(ぶしょう)の颯爽とした立ち回に忽ち魅せられてしまった。かくて子供心に一度は京劇のナマの舞台を見てみたい、と。

この時、「1本の靠旗は10万の兵を表す。4本の靠旗を背負っているから、この武生は40万の兵を率いている」との解説を聞き、中国人は面白いことを考えるものだと感心したことを覚えている。だが後に靠旗は武生が大軍を率いていることを表し、4本は左右対称を好む中国人の美意識に由っていると知り、その昔の専門家のデタラメさに呆れたもの。やはり専門家とはいえ彼らの説く“専門知識”を鵜吞みにしてはイケナイ。

最初の出会いから10年ほどが過ぎた1968年、大学3年生の夏だった。縁あって台北郊外の淡水にあった淡江文理学院で実施された短期語学研修に参加した折、中国語の先生や宿舎で同室になった台湾の学生に「京劇を見たいのだが」「台北の京劇小屋を教えてくれ」と声を掛けはしたものの、誰もが曖昧な返事。さて台湾でも京劇は時代遅れで廃れる運命にあるのか、と納得せざるをえなかった。

当時、中国大陸は文革の真っ盛り。文革推進の先兵であり、毛沢東思想宣伝の武器である革命現代京劇以外の公演は許されなかった。毛沢東が打破を叫んだ四旧(旧思想・旧文化・旧風俗・旧習慣)の最たるものとして位置づけられていただけに、古典京劇は死んだも同然。ならば旧い京劇のナマの舞台を目にすることなど完全に不可能と落胆したものだ。

台湾滞在中、校外授業で政治工作幹部学校を見学した時のこと。大陸における庶民の苦しい日常生活から共匪(共産党)の極悪非道ぶりを教育するための品々が展示されている教室の片隅で、大陸製の古典京劇のレコード――たしか楊宝森の「文昭関」だったような――を目にした時には、さすがに感激した。早速、試しに聴かせてもらえないかと懇願したものの、係員は「不行(ダメ)」とつれない返事。せめて手に取って本場の京劇のニオイを嗅がせてくれと頼んだが、「展示品だからダメ」とにべもなく断られてしまった。

やや大げさながら、これで古典京劇と接することは金輪際不可能になったのか。落胆頻りであった。

ところが、である。香港での留学生活を始めて程なく、童伶(こどもやくしゃ)ではあるが、京劇の常打ち小屋があることを知ったのだから、欣喜雀躍・感涙滂沱である。小躍りしないわけがない。かくて猫に鰹節の諺のように、当然の成り行きとして戯迷(しばいくるい)の道を一瀉千里と突き進むことになる。

一時は明けても京劇、暮れても京劇。三度の飯を一度に、酒の誘惑をキッパリと振り切ってまで荔園(2232回~2235回)のなかの第六劇場(京劇小屋)に日参し、至福の一刻に酔い痴れた。生活の一切を京劇につぎ込んだ、とは些か大袈裟か。

荔園と第六劇場の両方の入場料を合わせたところでタカが知れた金額。とはいえ回数を重ねれば、財布に響く。そこで当然のように食費を切り詰めることになるのだが、これが暫く通ううちにどちらも幸運が舞い込んだ。じつは荔園の入場料がタダになる方法を顔馴染みになった常連の戯迷(オッサン)たちが教えてくれ、第六劇場の方は晴れて常連の仲間入りを果たしことから顔パスの栄誉を与えられたのであった。

通常は夕方6時開演で10時前後に終幕となる。元旦や端午節、重陽節などの祝日には昼の公演もあった。1日2回の公演などという絶好機を見逃すわけはない。そんな時は昼も夜も荔園へ。という訳で、最も多く通った時には1年で365回は超えていたような。足繁く通ったのは3年ほどだから、単純計算でも相当な数の演目を観たことになる。《QED》

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