――「臺灣の事、思ひ來れば、感慨無量・・・」――田川(19)田川大吉郎『臺灣訪問の記』(白揚社 大正14年)

【知道中国 1982回】                      一九・十一・初九

――「臺灣の事、思ひ來れば、感慨無量・・・」――田川(19)

田川大吉郎『臺灣訪問の記』(白揚社 大正14年)

ここで、昭和13(1938)年11月上旬に満蒙開拓青年義勇隊孫呉訓練所を訪れた小林秀雄の感懐を思い出した。孫呉は黒龍江に沿ったソ満国境最前線の街である。

 1年前の昭和12年11月の閣議決定で成立した満蒙開拓青年義勇隊の訓練は、翌13年1月から茨城県内原訓練所で始まる。2、3ヶ月程度の訓練後、満蒙に送り込まれた青少年開拓団員には防衛の任務も課せられていた。

「孫呉の雪野原には、未来の夢を満載した十六から十八の千四百名余りの一団が、昭和十三年五月、内原から到着して、満州ではじめての冬を経験している」。

 孫呉駅前の食堂で昼食の後、小林は訓練所に戻るトラックに乗せてもらう。「冷たい風で鼻の先は痛いが、防寒具をつけているので、寒さは少しも感じない」。だが、同乗していた10数人の少年たちへの配給は「防寒外套、防寒靴は無論の事、シャツ、靴下類に至るまで」「まことに不十分」だった。だから、彼らは酷寒零下22度の寒風に吹かれ震えている。

 やがて訓練所へ。少年らの宿舎である「一と塊の見苦しい家屋」を見た時、小林は「千四百人の少年が、ここで冬を過すとはどういう事であるかを理解した」。「それは本の統計にも説明にも書いてないことであった。いや、恐らく幹部の人達も、此処へ来てはじめてそれを理解しただろう」。満蒙開拓青年義勇隊は、最初から欠陥を抱えたままだった。壮大な理念のみが先行し、現実が半ば無視され、具体的方策が蔑ろにされていたということだ。

小林は「会った幹部の指導者達に、満州生活の経験者と呼んで差支えないと感じた人を見付け出す事はできなかった」。満蒙開拓青少年義勇隊という「この新しい仕事には、皆言わば素人であった」わけだから、やはり計画は最初から頓挫する運命にあったに違いない。

 かくて「準備の整わないうちに冬は来て了った」。「出来上がった泥壁に藁葺きの屋根の宿舎の形こそ大きいが、建築の粗漏な点では、一般満人の農家にも劣る」。

 「本部の建物に這入ると、事務机の並んだ傍らに、白いお骨の箱が、粗末な台の上に乗っているのが眼に付いた」。「萎びた蜜柑と南京豆とひねり飴」が少しばかり供えられていた。もちろん小林も合掌したが、燃えないペエチカに苛立った少年がガソリンを掛けようとし、抱えたガソリン缶に引火して焼死したとのこと。寒さに耐えかねた少年が憐れだ。しかも幹部は「仏に粗末になっても適わないから」早く始末したい意向である。それを知って小林は「僕は気持ちが滅入って来た」と呟く。

 「事件は簡単だが、無論その原因は、少年の無智などという簡単なものにありはしないのだ。ペエチカの構造、薪の性質、家の建て方、生活の秩序と、果てしない原因の数を、僕は追おうとしたのではない」。

 「凍った土間に立ち、露わな藁葺きの屋根裏を仰ぎ」ながら、小林は静かに憤る。

 確かに「部屋の中央には、細長いペエチカが二つあって、いい音をして燃えている」。だが、「未だ二重窓も出来ぬ、風通しのいい部屋の氷を溶かすわけにはいかない。やがて暗いランプが点り、食事となった。少量のごまめの煮付けの様なものに、菜っ葉の漬物がついていた。僕は不平など書いているのではない」。「内原の訓練所には少年の栄養研究班なるものがあった」ではないか。

 少年たちに向かって鸚鵡返しに「諸君の理想、諸君の任務、という言葉」を口にしたであろう大人たちではあるが、哀しいかな「具体的な組織的な方法」を思いつかない。「五族協和」を掲げ「諸君の理想、諸君の任務」を熱く語るも、理想を実現させるための大局的視点に立つ「具体的な組織的な方法」、つまり大戦略を持たないという根本的な欠陥――なにやら田川が掲げた台湾統治の理想と現実の落差にも通じるように思えるのだが。《QED》

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