――「ポケット論語をストーブに焼べて・・・」(橘59)「孫文の東洋文化觀及び日本觀」(大正14年/『橘樸著作集第一巻』勁草書房)

――「ポケット論語をストーブに焼べて・・・」(橘59)「孫文の東洋文化觀及び日本觀」(大正14年/『橘樸著作集第一巻』勁草書房)
【知道中国 2099回】                       二〇・七・初八

――「ポケット論語をストーブに焼べて・・・」(橘59)

「孫文の東洋文化觀及び日本觀」(大正14年/『橘樸著作集第一巻』勁草書房) 

ここで橘の三民主義論に入る前に、1938年3月に江蘇省、浙江省、安徽省の3省に加え、南京と上海の両地を統括すべく成立した「中華民国維新政府」で実業部長を務めた王子恵の三民主義に対する考えを紹介しておきたい。

じつは王子恵は、あろうことか三民主義を全く評価していない。まるで木で鼻を括ったように、夜店に並ぶ古本から拾い集めた程度のガラクタ思想だと切り捨てる。さらには言うにこと欠いてか、「三民主義がいゝンなら六民主義はもつといゝはずですよ。十二民主義なんてやつならなほさらオツぢやありませんか」と、一刀両断である。透徹した眼力で真実を射抜いているのか。豪胆なのか。無謀なのか。だが匹夫の勇ではなさそうだ。

孫文や三民主義、さらには辛亥革命に関する内外論文の全てに目を通したわけではないから確かなことは言えないが、これまで当たった関連する資料や論文を思い出しても、ここまで徹底した三民主義批判、というより嘲笑の言葉に接したことはない。たしかに「三民主義がいゝンなら六民主義はもつといゝはずで」あり、「六民主義」の2倍に当たるわけだから「十二民主義なんてやつならなほさらオツ」に違いない。

これまで孫文批判の急先鋒は北一輝だと思い込んでいた。その証拠に『支那革命外史』の行間には激烈な孫文批判が溢れているではないか。たとえば、

「孫逸仙の根據なき空想・・・」。

「孫君の理想は傾向の最初より錯誤し、支那の要求する所は孫君の與へんとする所と全く別種の者なるをみたりと」。

「孫君の米國的大統領政治の翻譯は却て其の理想とする民主的自由を裏切りて專制に顯現すべきは論理上推想し得き所にあらずや」。

「彼の米國的理想(彼の親米主義と判別すべし)が、彼等の理想にも彼國の要求にも非ざる殆ど没交渉に近き者なることを・・・」。

『支那革命外史』で北は、孫文の革命の思想・手法に徹底して異を唱える。だが流石に北も日本人であるから、批判は真っ正直で正攻法に傾きがち。その点、中国人である王は老獪で辛辣だ。頭からの全否定だから反論の余地もない。孫文を盲目的に絶対視する風潮への疑問を呈したということだろう。

以下、橘の孫文評価を解き明かそうとおもうが、参考までに王子恵と北一輝による孫文評価を頭の片隅に刻んでおきたいものだ。

橘は三民主義のうちの「民族主義は、先づ第一に滿洲民族から漢民族の手に中國の統治權を奪ひ返すものであ」るが、「其れは辛亥革命に依つて比較的容易に實現された」。だが孫文は、さらに先を求めた。国内における漢民族の支配的地位を取り戻すことに止まらず、「更に進んで中國々家に對する外國人の支配を排斥し、所謂國際平等の主義を中國の國際關係に於ても徹底的に實現せねばならぬと言ふのである」。「更に一歩を進めて『覇道的』の西洋文明に對し『王道的』の東洋的文化を世界の表面に打ち立てようとする」。

孫文最後の訪日に際し「昨年〔大正十三年〕十一月二十八日に神戸で日本人に對して講演した『大亞細亞主義』」を、橘は「彼の民族主義の最後の目的を宣言したものである」と解釋する。だが三民主義のうちの民族主義に、そこまで広範で深淵な理想が込められているのか。橘の孫文に対する買い被りであり、贔屓の引き倒しだろう。橘の見立てが正しいとするなら、1924年の第1次国共合作を機に掲げた「連ソ・容共・扶助工農」路線も、「『王道的』の東洋的文化を世界の表面に打ち立てようとする」試みの一環と見做すこともできる。はたして「連ソ・容共・扶助工農」は「『覇道的』の西洋文明」ではないのか。《QED》

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