――「『私有』と言ふ點に絶大の奸智を働かす國である」――竹内(12)竹内逸『支那印象記』(中央美術社 昭和2年)

――「『私有』と言ふ點に絶大の奸智を働かす國である」――竹内(12)竹内逸『支那印象記』(中央美術社 昭和2年)
【知道中国 1886回】                       一九・四・念八

――「『私有』と言ふ點に絶大の奸智を働かす國である」――竹内(12)

竹内逸『支那印象記』(中央美術社 昭和2年)

 「旅行者の濟南一人歩きは見合わはすがいゝと言」われたというから、おそらくは排日気分が漲っていたのだろう。そこで「私は支那服を着た」。夏の済南の「九十四五度の午後四時」である。扇で涼を取る姿を見ながら考えた。「果して支那人が如何に扇を悠々と使ふかに注目されたことがあるだらうか。また日本人は擧つてあんなに小忙はしく扇を動かすのであらうか」と。「大きく弧線を描いて胸を離れ、再び胸に落ちて來るまでには恐らく六十秒を要するだらう。日本人なら六十秒間に百二十回煽ぎ動かすだらう」。

 居眠りしながら「大きく口を空いて、その中に蠅がゐる」。「天來無神經に惠まれてゐる支那人」なればこそ、ということになるようだ。

 「私にとつて、見るべく感ずべき都であるばかりではなく、休養の地である」北京を目指し、天津を旅立つ。「一望千里の平野を埋める土饅頭、夕陽は黃金に輝いて斜めに照らす」。

「由來、事變が起れば北京が目標だ」。そこで「この土饅頭の平野は戰場と化す」。かくて「墓場の上に更に血を流し屍をさらす。世界何處、斯くの如く澎湃たる墓地を有する國があるだらうか。墓場の詩情墓場の靜寂ではなく、墓場の偉觀は支那に求むべきであらう」。

 さて、いよいよ「支那と言ふPublic Park.その本據なる北京」である。アヘン戦争以後、次々に列強に侵食された地方は「支那土生の文明と外侵文明とが混亂してゐて、兎も角もその勢力は異國人の支配下にある」。だが「支那なる寺院境内」における「御堂」である「北京は今なほ支那特有の文明と生活とを濃厚に寶蔵して、東洋での讃美すべき大都として旅行者を樂しましめてゐる」。

とはいうものの、やはり北京でも「錢の前には人命なんか問題ではない」し、見るべきは「猶太人を駆逐しつゝある支那人の潜勢力である」。かくして「毛唐の女がテニスをやつてゐるのを見た支那人は、『あんなに走り廻つて幾ら錢が貰えるのだ』と訊ねたさうだ」。

ある欧米学者は「支那と言ふ國がコロンブス亞米利加發見當時と大した變化がないだらうと説く」が、「其處に支那の特質がある。支那人は新設に對して融通心が無い」とも説かれているが、「それあるが爲に私は今この北京に於て愛すべき支那を觀ることが能きるのである」。

かくして「支那の悠暢たる進化に對して日本の急速なる進化はどうだ。從つてその蕪雑さはどうだ」と説く。だが、21世紀初頭の現時点における両国の姿を見ると、「急速なる進化はどうだ。從つてその蕪雑さはどうだ」と問うべきは日本だとも思える。どうやら「急速なる進化」は必然的に「蕪雑さ」を伴うらしい。もっとも日本と違い人口は12、3倍であり、ガサツで超新しモノ好きでブレーキが効かない。ならばこそ「蕪雑さ」もケタ違い。

北京は大巨大都市であり各国の「公使館は居並んでゐ」るが、「この地に現支那民國の政府が在るとは思えない」。清朝は崩壊しすでに廃帝であるにもかかわらず、「今なお宣統帝が中心人物のように思へる」。

「偶然出會つた血氣の若者」が竹内に向かって、「黎元洪は臺所まはりの世話ばかりうまくて民國の統御者としては微温い。彼は一個の圓満なる紳士」「張作霖は馬賊の棟梁で人間の心なんか解る男ではない」「呉佩孚はこの日進月歩の世の中に外國語一字も解しない單なる戰爭屋」「孫逸仙は革命の志士を氣取つて青樓好きの遊治郎」と、「支那の政権を運轉させてゐた」4人を評した。この若者が「必ずしも現代支那の與論を代表するものではないだらうが」と断りながらも、中華民国とは名ばかりで実態は無政府状態であることに納得の態だ。

それにしても「孫逸仙は革命の志士を氣取つて青樓好きの遊治郎」とは、至言だ。《QED》

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