――習近平少年の読書遍歴・・・“あの世代”を育てた書籍(習118)
1972年を振り返ると、前年9月の林彪の不可解な死――熾烈な権力闘争で難敵の林彪を屠って以降、権力に対する毛沢東の異常なまでの執着心に陰りが見え始めたように思う。
「大奸は忠に似たり」の箴言ではないが、やはり権力者の身辺に躙り寄る忠義ズラしたヤツが最もアブナイ。危険だからこそ、最高度の注意を払うべきなのである。古今東西を問わず、権力者の寝首を掻くヤツは忠義ズラしたヤツと相場は決まっているではないか。
かくて毛王朝が“黄昏”の兆しを漂わせ始めると、最も忠義ズラした四人組――江青、張春橋、姚文元、王洪文――が蠢き出す。そこで彼らの周囲に筆杆子(ペンのゴロツキ)が群れ集い、次々と製造される“紙の爆弾”による絨毯爆撃が展開される。かくて香港の中国系書店の店頭にも文革本が溢れ出す。
そうなったらそうなったで、誰がなんと言おうと買って、買って、買いまくった。振り返れば当時は、林泉別墅での家庭教師と第六劇場通い、それに文革本漁りの日々だった。
本題に入る前に、1972年に起こった主な出来事を拾っておきたい。
元旦の『人民日報』『紅旗』『解放軍報』は共同社説を掲げ、「工業、農業、商業、科学技術、文化教育などの部門の広範な革命大衆は、引き続き困苦奮闘・自力更生の精神を発揮し、革命を掴み、生産と日々の作業と戦争準備の方針をシッカリと捉まえ、より速く、よりムダを省き、国家が策定した計画を超えて達成させよう」と国民を煽った。
その2日後の1月3日、アメリカ大統領安全保障担当関係者など18人が北京に到着。いいよいよニクソン訪中の準備が最終段階を迎える。北京で周恩来と会談した後、一行はニクソン大統領が訪問を予定している上海と杭州などを視察している。
4日後の1月7日に中国最初の原爆実験が行われ、それから10日ほどが過ぎた1月18日、肺心症の昏睡から回復した毛沢東は、江青の面前で周恩来を指差し、「オレはダメだ。あんたが頼りだ!」と漏らした、とか。これが真実なら、毛沢東の命が尽き掛けていることを悟った江青が張春橋、姚文元、王洪文らと謀って“ポスト毛沢東”への態勢固めに入ったと考えても、強ち不思議ではないだろう。
2月21日午前11時、ニクソン大統領、同夫人、キッシンジャー、ホワイトハウス東アジア担当者らを乗せた大統領専用機が北京に到着。一行は周恩来の出迎えを受けた後、中南海の毛沢東邸を訪れ会談。毛沢東はニクソン大統領に向かって、「中国人は我々の会談に15分を予定していただけだった。あなたとの話に吸い込まれ、ついつい1時間ほどに伸びてしまった」と語った、とされる。
26日、ニクソン大統領一行は中国人が操縦する専用機で杭州へ。翌日の上海虹橋空港でキッシンジャーは「大統領は初めて外国機に搭乗した。それと言うのも中国機が安全だからだ」と。上海で「米中上海コミュニケ」が発表された翌28日、世界を震撼させたニクソン訪中が終わった。
5月1日、党中央による「批林整風報告会」の席上、江青は「数年来、林彪は数々の悪辣陰険な手段を使って、私の抹殺を試みた」と。7月に入ると、「国民党反共分子、トロツキー派、叛徒、特務、修正主義分子」のレッテルを貼り付け、「陳伯達による反革命の歴史的罪状」が公表される。毛沢東の理論秘書だった陳だが、林彪の影響力が拡大するや林彪寄りに政治スタンスを切り替えた。かくて毛沢東の逆鱗に振れてしまい、哀れ粛正である。
以後、四人組が政治の前面に顔を出し、四人組の跳梁跋扈が始まることになる。
9月25日、田中首相と大平外相が訪中。翌日、周恩来は「中国に迷惑を掛けた(添了麻煩)」との田中発言に対し、過去に中国と中国人が被った被害は「添了麻煩(悪かった)」などの軽々しい謝罪では済まない、と怒りを爆発させた。周の先制攻撃であった。《QED》