――習近平少年の読書遍歴・・・“あの世代”を育てた書籍(習100)
ここで中共中央弁公室が72年7月に発表した『粉砕林彪反党集団反革命政変的闘争(材料之三)』に基づいて、『心紅似火』が出版された前後の北京最上層における権力闘争の経緯を追ってみたい。それというのも、“紙の爆弾”の企劃・出版・販売と権力闘争の間の時間差が気になるからである。
失脚した劉少奇が押さえていた国家主席ポストの取り扱いをめぐって、毛沢東は必ずしも必要ないと持論を展開。これに異を唱えたのが69年の第9回共産党全国大会で公式に毛沢東の後継者とされた林彪で、同ポストの存続を強く主張した。さらに林彪派が「毛沢東天才論」を持ち出すや、これを自らに叛旗を翻す前兆と警戒した毛沢東は、71年1月には北京軍区の改組を断行した。林彪の権力基盤である第4野戦軍系を編成変えし、「親密なる戦友」の力を殺ぐことを狙ったのだろう。
一連の毛沢東の動きに危機感を抱いた林彪系は、林彪の長男である林立果を中心に空軍内に秘密裏に「連合艦隊」なる林彪親衛隊を組織化した。71年3月になると、「五七一工程紀要」と名づけたクーデター計画を作成し、万一の場合には毛沢東暗殺による権力奪取まで企図した。かくて9月、毛沢東暗殺に失敗した林彪はソ連への亡命を企てたものの、乗っていたジェット機とともにモンゴル領内に墜死した。
――以上の中共中央弁公室、つまり共産党の公式見解に照らすなら、『心紅似火』は林彪が「親密なる戦友」と見做されていた頃に企劃され、挿画で林彪後継を示そうとした。ところが出版1か月前には、すでに林彪の命運は尽きていた。だが、それを公式に明らかにするわけにはいかない。そこで、已むなく予定通りに出版してしまった。
『心紅似火』が香港の学生書店の店頭に並んだ頃、林彪一派は起死回生の生き残り策を求め、考えられる限りの手段を講じていたはず。こう前後関係を追ってみると、林彪事件で総称される一連の権力闘争は、どうやら突然に火を噴いたようにも思える。
そこで興味を持つのだが、林彪事件が発生した後、この本が中国国内でどのように扱われたのか。そのまま販売されたのか。はたして全面的に廃棄処分になったのか。『心紅似火』の“行く末”と共に、どのようなルートで香港にもたらされたのかも知りたいところ。
それにしても、当時の中国には『心紅似火』の主人公のような誠心誠意の人が実在していたのだろうか。
同じ体裁の『雄鷹征途煉紅心』は、悪天候を衝いて被災農民支援に向かう輸送機のパイロットや乗務員の沈着冷静な戦闘振りを描いている。彼らを鼓舞したのは「決心を固め、犠牲を恐れず、万難を排し、勝利を勝ち取る」との毛沢東の言葉だった。
次に連環画を紹介しておく。全て上海人民出版社の出版である。
『“模範共青団員”胡業桃』の主人公である胡業桃は、1970年1月25日、「為人民利益而死、就比泰山還重(人民の利益のための死は泰山よりさらに重い)」と、20歳の若い命を捧げた。
安徽省で彼が育った家庭は極貧を絵に描いたような農家であった。「祖父は数十年を地主の家で牛馬のようにこき使われ、両親は幼いころから乞食をしていた」。彼の3歳の姉と1歳に満たなかった兄は、両親が街で物乞いをしている間に餓死していた。1947年のことだ。
毛沢東が導いた新中国に生を享ければこそ、胡業桃は「幼い頃から旧社会に対する大いなる恨みを心に刻み、偉大なる領袖・毛主席への無限の熱愛を抱いていた」そうだ。
両親を失いながらも、胡少年は「物心つくようになると、貧農下層中農と人民解放軍の心からなる教育を受け、毛沢東思想の陽光と慈雨になかですくすくと成長した」というから、幼いながらもリッパな毛沢東思想サイボーグ戦士に育っていたことになる。《QED》