――習近平少年の読書遍歴・・・“あの世代”を育てた書籍(習88)
1971年に改まるや、毛沢東と林彪の間で権力闘争が激化する。
「早くオレに権力を譲れ。譲ってもらわなければ、オレはともかく、女房の葉群がシビレを切らしているし、息子の林立果を担ぐ家子郎党が黙ってはいない。空軍を使って物騒なことをやらかしかねない」と林彪が脅せば、毛沢東は腹の中で「なんでオマエに譲らなければならないんだ。共産党はオレのものだ。オマエはオレの番犬に過ぎない。番犬には飼い主に楯突く権利はない。これ以上ゴチャゴチャ文句を言うなら、なんなら劉少奇のブザマな最後を味わわせてやってもいいんだぜ・・・」と嘯いていたのではなかったか。
たとえば5月1日の「労働節(メーデー)」だが、『文革大年表』(趙無眠 明鏡出版社 1996年)は、当日の様子を次のように伝える。
――天安門楼上で毛沢東と林彪は公然と敵意を剥き出しにした。夜、テーブルを共にして花火を鑑賞したが、毛は林に目を向けることはなかった。林はこわばった顔つきで5分ほど同席したが、怒りを含んで退席した。だが、すべての新聞は「偉大なる領袖・毛主席と親密なる戦友・林彪副主席」を揃って首都の50万に及ぶ革命大衆と海外友人と共に「五一国際労働節」を慶祝したと報じ、併せて両人が天安門楼上で共に花火を鑑賞する大判の写真を掲載した――
『文革大年表』に拠れば、どうやら2月の早い段階から林彪の長男である林立果を中心に、毛沢東から権力を奪取する計画が秘密裏に進められていたらしい。後に大規模クーデター計画の「五七一工程紀要」へと発展する伏線だろう。
対するに毛沢東は、長期に亘って政策・思想担当秘書を務めながら林彪陣営の知恵袋へと寝返った子飼いの陳伯達を「特務」「反共分子」と断罪し、政治犯を収容する北京郊外の秦城監獄にブチ込んでしまった。その一方で、周恩来とキッシンジャーを経由してニクソン米大統領との会見実現に向けて画策する。
4月に名古屋で行われた世界卓球選手権に参加したアメリカ選手団を偶然を装って北京に招待し、7月になると取り巻きの章文晋、王海容、唐聞生などをパキスタンのイスラマバードに送りキッシンジャーの秘密訪問を出迎えさせたのである。15日にはニクソンが「明年5月以前に北京を訪問」と発表した。米中接近に向け動き出したのだ。
8月、キッシンジャーは米国務長官として「中華民国の国連追放に反対」との条件を付けながらも、「米政府は中華人民共和国の国連入りを支持する」と表明している。
もはや、この段階で勝負あり。林彪の将来は事実上断たれたてしまった。その後、林彪夫妻と息子の林立果、さらに解放軍内の林彪派の周辺で何が起こったのかは不明だ。事実としては、9月14日にモンゴル外務省から在モンゴル中国大使に「中国機1機墜落」の連絡が入り、翌15日に同大使が墜落現場に向かい、16日に林彪・葉群夫妻(とされる)を含む9人の遺体を収容し、納棺のうえ現場付近に埋葬した。
18日に中共中央は党軍幹部に対し「林彪が国家反逆行為を犯した」旨を告知し、10月に入ると中共中央は全国規模で林彪批判運動(「批林整風」)を展開することを通告した。
このように「林彪事件」と呼ばれる一連の出来事を時系列に沿って簡単に追ってみたが、一切が藪の中。真相は、共産党政権が崩壊でもしない限り明らかになることはないだろう。
10月25日の国連第26回総会において、5か国で構成される安全保障常任理事国の「中国」のポストが中華民国にから中華人民共和国へと転ずることが決議された。
やや冗長になってしまったが、1971年は国内的には林彪が「毛主席の親密な戦友」から「毛沢東に楯突く国家反逆者」へと“大転落”し、林彪に変わって「四人組」が権力中枢で基盤を固め、いわば文革の性格が大いに様変わりした年となったと考えたい。《QED》