――習近平少年の読書遍歴・・・“あの世代”を育てた書籍(習39)
ポイペトのカジノの入り口の壁に麗々しく並んだ営業許可証などを見ると、経営者の漢字名が記されている。プノンペン在住の華人だった。つまりプノンペンの華人が経営するポイペトのカジノで遊ぶのは、主としてバンコクの華人だった。これもカンボジア和平の副産物と言うことだろう。
それから10年ほどがすぎて、プノンペンからホーチミンまでバス旅行をした。ヴェトナムとの国境の街・バヴェットでも幹線道路の両側にはカジノを付設したリゾート・ホテルが並んでいた。周囲の農村の貧しい風景からは考えられないような豪華さだが、主な客はヴェトナムからやって来る。
カンボジア西端のポイペトにはポル・ポト派の拠点が置かれていた。東端のバヴェットを含む一帯はヴェトナム領に突き出ていることから「オウムのくちばし」と呼ばれ、ヴェトナム戦争最激戦地の1つだった。ヴェトナム戦争は遠い昔に去り、カンボジア和平が実現すると、硝煙が漂い血腥かった戦場はカジノの街に変身する。不思議と言えば不思議ではあるが、これが現実というものだろう。
だとするなら、今から半世紀ほど昔に世界の若者を虜にしてしまった「民族解放戦争」と言う呪文は、いったい、なにを世界にもたらしたのか。世界はなにを失ったのか。あの当時、世界はなにに血迷っていたのか。余りにも感傷的だとは思うが、ハタと考えさせられてしまう。
ここでカオイダン難民収容所に戻って「減少出生」を。
毛沢東原理主義に骨の髄から染まっていたポル・ポト政権が“カンボジア版大躍進政策”を強行したことから、お定まりの悲惨コースが始まった。農村は荒廃し、極端な栄養不足状態から女性は妊娠不能状態に陥り、将来的にカンボジア民族は絶えるとまで報じられていた。
ところが難民収容所を歩くと、妊娠している女性とすれ違うことが少なくなかった。やはり聞くと見るとでは大違いであり、百聞は一見に如かず、であった。
そこで収容所の医者に尋ねると、「休養をタップリ取り、栄養状態が元に戻れば妊娠は可能だ。現状からしてカンボジア民族が絶えることなどない。杞憂だ」と。この医者の話を聞きながら、メディアの流す報道を鵜呑みにすることの危うさを実感したものである。可能な限り自分の足で歩き、自分の目で見て、自分の体で感じ、先入観を排して自分のアタマで考える。それしかなさそうだ。
なにやら遠回りをしてしまったが、香港の古本屋の店先に戻りたい。
じつは香港の古本屋で手にした書籍を改めて並べてみたが、やはり60年代前半に出版されたものは極端に少ないのである。
それというのも、当時の香港の古本屋の店頭で見掛けることが少なかったからだろう。その背景を考えるに、大躍進という非常事態下であり、中国における出版活動が極端に低調であった。あるいは出版活動は変わりなく続いていたが、飢餓地獄から逃れるための避難民が大量に溢れ出たため、中国側が香港との往来を厳しく管理してしまった。そこで書籍もまた必然的に香港に持ち出せなくなっていたのか。
手許に置いてある61年出版は『游戯宮』(少年児童出版社 61年5月)と『?枝蜜』(少年児童出版社 61年12月)の2冊。
『游戯宮』は手のひらサイズの大きさで、各頁に簡単なイラストが描かれ、その脇に質問が記されている。たとえば首輪につながる紐の一方が立木に縛られた犬と、その犬から少し離れて子羊が描かれている。「腹が減った子羊は草を食べたいが、犬に邪魔されて食べられない。さて、どうすれば子羊は草を食べることが出来ますか」が質問。「犬の周りをグルグル回ると、紐が木に絡みつき犬は動けなくなる。そこで子羊はゆっくりと腹を満たすことが出来る」が、その答えである。
紙質も印刷も劣悪に近く、当時のモノ不足を追体験するに十分だ。内容から分かるように他愛のない絵本の類で、行間からイデオロギー臭が立ちのぼってくるわけでもない。手のひらに載せて眺めていると、当時の慎ましやかな生活振りが思い浮かぶようであり、なぜかホットするから不思議だ。あるいは飢餓地獄の中の束の間の癒やし、といったところか。《QED》