――習近平少年の読書遍歴・・・“あの世代”を育てた書籍(習5)
『怎樣教學中國語法』の出版は建国から4年が過ぎた1953年9月だった。当時の社会状況を振り返るに、共産党政権は朝鮮戦争(1950年6月~53年2月)の戦後処理、国内に留まった反共産党勢力(国民党、地主、資本家など)の鎮圧、国家建設のための資源の不足など、早急に解決すべき難題を抱えていた。
どうやら1953年秋の段階で、毛沢東は“慈悲深い全知全能の神”として教室に降臨していたことになる。共産党政権は旧時代の残滓に塗れた大人を避け、毛沢東を神と崇める少年を学校で大量に生産し、若い世代を前面に押し出すことで社会の改造を強引に進めようと狙ったのか。ならば彼らは、後の文革において「毛沢東の敵」に猛禽のように襲いかかった紅衛兵の原型とも言える。ハサミと子ども(小さな大人)は使いよう、らしい。
共産党政権は朝鮮戦争に参戦することで全国の人力を組織的に把握し動員するばかりか、全国の資源を一元的に掌握し厳格な統制下に置き、強制的に社会建設に振り向けることが可能となった。加えて人々の民族感情が外敵に向けられることで、共産党政権への違和感・反発を抑えることで、逆に求心力を増すことが出来たわけだ。
1951年末からは「反汚職・反浪費・反官僚主義」を掲げる「三反運動」を、52年に入ってからは「五毒(賄賂、脱税、公有財産の横領、工事の手抜き、国家の重要情報の窃取)」を取り除くための「五反運動」を展開し、共産党が「人民の敵」と見なすブルジョワ階級や国民党政権以来の官僚や地域のゴロツキなどの根絶やしを狙った。また地主階級壊滅に向けた「土地改革」は全国規模で強引に進められていた。反社会主義分子壊滅工作である。
この時期、台湾の蔣介石政権への米政府の肩入れは一層強化され、53年2月には台湾水域の中立が解除され、54年12月には米台相互防衛条約が結ばれている。因みに日本は52年4月に蔣介石政権と日華平和条約を調印し、日本と中華民国との間の戦争状態を終結したことを内外に向けて鮮明にしている。
以上は大人の社会における大変動。一方、“未来の大人”である子どもの世界に向けた共産党政権の対応に目を転ずると、
我が積読蔵書で『怎樣教學中國語法』に次いで古いのが1953年11月出版の『少年自然科学叢書 顕微鏡的日記』(呂肖君 少年児童出版社)である。
主人公である顕微鏡の日記という体裁で、細菌やウイルスの実態を分かり易く説き聞かせ、最後に登場人物の1人が「伝染病を見つけたら、直ちに患者を病院に、ならば他人に移しません。服や道具に付くばい菌は、先ずは消毒一番大事。糞便桶を川辺で洗わず、川のばい菌防ごうよ。みんなしっかり話を聞いて、聞いたら直ちに実行だ。ばい菌消えれば健康で、生産活動、力が入る!」と唱って聞かせる。「みんなが衛生に注意すれば、病気になる機会が減るんですよ!」との呼び掛けに、子どもたちが「そうだ、そうです、と誰もが頷いた」で終わっている。
『感染症の中国史 公衆衛生と東アジア』(飯島渉 中公新書 2009年)は、「一九五二年二月米軍機などが安東など中朝国境地帯に昆虫を散布して細菌戦を実施したという記事が『人民日報』で報道されたことをきっかけとし」、周恩来を主任とする中央愛国衛生運動委員会による愛国衛生運動が発動され、「健康な生活のための生活習慣全般の改善を内容とする多様な運動」として展開されたと記す。
「糞便桶」は便所のない家庭での屋内用簡易便器。朝、前日分のブツを川に流し、汚れを水で洗い流し、元の場所に置く。糞便桶に象徴される不潔極まりない習慣にドップリと浸かってきただけに、大人社会では愛国衛生運動の展開は容易くはない。そこで“未来の大人”に運動を周知徹底させようとした。それが本書出版の狙いだったのか。《QED》