――英国殖民地だった頃・・・香港での日々(香港158)
孫さんが務めていた検場(くろこ)は役者の演技を手助けすることに違いはないが、歌舞伎などで見られるように黒装束の上に顔を黒い布で隠しているわけではない。顔を出したままで、布製の靴に地味な色――孫さんは灰色が多かった――の中国服を身につけ、そのまま街を歩いても取り立てて違和感のない出立で舞台に立ち、演技中の役者の邪魔にならないように動いていた。
なぜ検場は役者と共に舞台に立つのか。それを知るためには、やはり芝居としての京劇の仕組み――京劇という芝居の本質とも言える「程式(やくそくごと)」――について語らなければならないが、ここでは検場に関わる部分だけを、しかも極く簡単に説明しておく。
京劇では基本的に大道具は使わない。大道具の代わりをするのが椅子であり机を芝居の筋運びに合わせて舞台上の所定の場所に設えること。それが検場の仕事の柱である。
現に役者が見せている演技の邪魔にならないように、また客の視線を遮らないようにしながら、検場は机と椅子を並べ次のシーンを支度する。
第六劇場通いが重なり、童伶の芝居を見慣れてくるに従って、最初の内は鬱陶しく感じられた検場だったが、いつしか気にならなくなった。むしろ“在ってなきもの”と化して、こちらの視界から消えてしまうから不思議だ。
舞台に置かれた椅子と机は、検場の置き方、並べ方、組み合わせによって豪華な宮殿、官衙、法廷、豪壮な屋敷、峻険な山、草深い杣道、屋根の上、将軍の幕舎、寝間、陋屋などに千変万化する。
たとえば客席から見て舞台中央の左右に机と椅子を1つずつ置く。上か見ると「八」の字に見えるところから「八字?」と呼び、これで宴会場を表すことになる。
舞台中央に机が1つ。その左右に椅子が一脚ずつ。これが「八字跨椅」で、官衙での執務室、家庭における応接間など。
同じく舞台中央に机を1つ。その上に椅子を1つ置き、机に向かって右手に背を客席に向けて置かれた椅子を踏み台にして役者が机に上がり、机の上の椅子に腰を下ろす。この形を「小高台」と呼び、御座所付きの大型船、山坂、将軍の指揮台などになる。
机と椅子は組み合わせ方によって自在に変化し、ありとあらゆる環境を舞台の上に表してしまう。客は椅子と机の向こうに、様々な環境を思い浮かべる。とはいうものの、無数に使われるわけではない。舞台の広さに関係なく、最多でも机が3つに椅子は4脚程度か。
第六劇場通いも半年ほどが過ぎた頃だったろうか。タダで京劇を愉しめる方法はなかろうかと考えた。役者になるとして年齢、運動神経、喉、音感、顔かたちから先ずはムリだろう。そのうえ粉菊花校長に「打戯」など喰らったらメも当てられない。なんのために香港留学をしたのか。大げさに考えるなら、親に合わせる顔がない。
そこで次に思いついたのが、孫さんに弟子入りしての検場修業だった。これなら舞台に立って、役者の隣で、ライブで、しかもタダで芝居が愉しめる。これはステキなアイデアだと自画自賛。そこで早速孫さんに相談した次第。すると何時もの和やかな顔つきながら、「不行(ダメ)」と厳しい一言。
それというのも検場は演目の最初から最後までの筋運び、役者の動きを頭の中に叩き込み、机や椅子を定められた位置に設えたり片付けたり。加えて種々雑多な小道具を役者に手渡し、役者から受け取り・・・どう考えても、京劇をタダで愉しみたいなどといった不純な動機で務まるような仕事ではない。やはり浅慮と反省し、引き下がるしかなかった。
病膏肓に入るという言葉があるが、なぜ、ここまで京劇に入れ込んでしまったのか。我ながら不思議だった。この不思議さの謎は、半世紀が過ぎた今でも解けそうにない。《QED》