――英国殖民地だった頃・・・香港での日々(香港120)

【知道中国 2238回】                       二一・六・仲一

――英国殖民地だった頃・・・香港での日々(香港120)

田中さんの話はこうだった。

副知事を辞めて浪人生活をしているところに福田(「田中君が嫌いな福田君」)から「北京の中枢に繋がるルートを早急に、極秘に築いてくれ」との話があり、香港までやって来た。明日か明後日に北京からやって来る要人と話をつけて、うまくいけば北京に乗り込んで周恩来と話をつけたい。秘書としてどうだい。北京に行くかい――

もちろん、である。周恩来に会えるなら、たとえ火の中、水の中・・・である。

当時、佐藤長期政権に黄昏が迫り、ポスト佐藤をめぐって福田、田中の間で熾烈な後継争いが展開されていた。世に謂う「角福戦争」である。次期政権を目指す両者にとって北京との関係を如何に築くかが“勝負の分かれ目”となっていた。まさに「日中国交正常化」を錦の御旗に、一気に相手を圧倒しようというのだ。一方、佐藤首相も影響力保持を狙って、独自のルートで北京との関係構築を模索していた。

かくして“毛沢東のお墨付き”を目指して、田中、福田、佐藤の3勢力が暗闘を繰り返すことになる。これに自称・他称を織り交ぜた事情通、往時の支那通から大陸浪人崩れ、怪しげな共産党工作員が渦を巻き、国民党系の手練れの工作員が加わり、さらに米英の情報機関が参戦する。まさに有象無象が登場し、様々な勢力の思惑が雁字搦めに絡み合うわけだから、勢い複雑怪奇な動きが錯綜することになる。

さらに事情を複雑にした背景に、日本(自民党政権)の政権争いをダシにした形を変えた国共内戦――毛沢東対蔣介石、共産党対国民党――があったことは否めないだろう。国連での中国代表権争いで一敗地に塗れた蔣介石からするなら、対日工作を積極展開し、あわよくば日中国交正常化交渉の進捗に待ったをかける。そのことは毛沢東の面子を潰すことにもつながり、蒋介石政権としても多大のメリットが見込まれたはずだ。

かくして当時の香港は自民党における権力争いのもう一つの戦場と化し、蔣介石からする毛沢東に対するリベンジの格好の舞台ではなかったかと思うのだが。

田中(角栄)ルートについては、第一日文のY、D両先生が些か絡んでいたようでもあり、その動きは薄々ながら感じていた。

当時、第一日文の学生に20代前半と思しき美女がいた。登下校も教室内でも常に屈強な若者2人がボディーガード然と寄り添い、訛りのない中国語を喋り、広東語を話す他の学生とは振る舞い全般が違っていたし、他の学生との接触も避けがちだった。Y、D両先生の彼女に対する扱いは他の学生に対するのとは違って見えた。当時は奇妙なこともあるものと特に気にもしなかったが、後になって、どうやら佐藤ルート関係者の血縁だったらしいと知って、当時の疑問が氷解したものだ。

なお佐藤ルートについては、宮川徹志『佐藤栄作 最後の密使 ――日中交渉秘史』(吉田書店 2020年)が詳しい。

田中さんの話に戻る。

「北京からやって来る要人」とは、中国外交部で大きな影響力を持つ喬冠華(外交部長は1974年~76年)の側近らしい。「彼とは深い因縁があって」と田中さん。

じつは田中さんは20代半ばの少尉時代、河北・河南・山西にまたがる太行山脈一帯で「敵軍帰順工作」に従事し、軍刀を下げただけの姿で敵地に単身で乗り込み、7万余の蔣介石軍を無血で帰順させた軍功の持ち主。戦争中には松竹映画の主人公のモデルになったとか。

翌日だっただろうか。田中さんから「先方に会うことになったから何時までにホテルに来い」と電話。それなりに失礼のないような“一張羅”で、田中さんのお供をして指定の場所へ。今にして思えば、尖沙咀の麼地道にあった北京料理の鹿鳴春だったような。《QED》


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