――英国殖民地だった頃・・・香港での日々(香港108)
「香港情報」といえば、当時もガセネタ、ニセ情報――今風に表現するならフェイク・ニュースの代名詞とされていた。事実、香港に住んだ5年ほどの間に「毛沢東死す!」「毛沢東暗殺される!」と言った類のニュースが流れたことは再三だった。もっとも“超ド級”のフェイクも慣れっこになってくると、香港版の『東京スポーツ』か『内外タイムス』と思えば、それなりに楽しみではあった。
1967年の香港暴動であれ、中国系書店に並んだ新刊書やパンフレットであれ、同じように毛沢東思想を金科玉条の如く掲げていたが、よく見ると「毛主席語録」の引用にしてから微妙に違う。そこで、毛沢東を取り囲む勢力が必ずしも一本化しているわけではなく、四人組の牙城の感があった上海はともあれ、北京をはじめとする他地域では様々な勢力が入り乱れて覇(主導権=毛沢東の寵愛?)を競っていたのでは――と考えてみた。
中華書局には、おそらく『明史』出版前後までは四人組の影響は及んでいなかった。であればこそ、「出版説明」に“公式的見解”を掲げることで二十四史という正統歴史書の出版を続けた。「出版説明」に引用された「毛主席語録」は一種のアリバイ証明――我われも毛沢東思想を学び、文革を戦ってますよ――だったような気がした。
ところが『明史』出版前後に異変が起こる。中華書局の内部に四人組の影響が及び、「文革を戦うこの時期に、二十四史を暢気に出版しているとは何事だ。それは反革命で犯罪行為でアリ、いわば『毛主席語録』を掲げて毛主席に反対している」との批判が起きたようにも思える。文革時、様々な勢力が派閥争いを展開した。相手陣営切り崩しの切り札に毛沢東支持を掲げる。すると反対派は「我らこそ正統毛沢東派。ヤツラはニセモノ。赤旗を掲げ、赤旗に反対し、毛沢東死守を絶叫しながら毛沢東に反対している」と批判合戦だ。
そこで中華書局内で二十四史出版を推し進めようとする勢力が一計を案じ、いわば“免罪符”のように孔孟批判を持ち出し、二十四史出版の継続を狙ったのではなかろうか。
古くから使われる「借古諷今(古を借りて、今を諷する)」の搦め手戦法だ。文革初期、毛沢東は劉少奇を直接的に名指しせず、「中国のフルシチョフを倒せ!」と旗を振った。毛沢東に煽られた紅衛兵や労働者は「中国のフルシチョフ」を探しまくり、最終的に劉少奇を標的に絞り責め苛み、虐め倒し、屠り去ったのだろう。
とかく中国政治は複雑怪奇。そのワケの解らない混沌とした中国政治が香港に微妙に投影されていた。中国政治のテーマパーク。それが香港の一面の姿ではなかったか。
殖民地になって以降、中国歴代の政治活動家や異分子が香港に“仮寓”した。殖民地政庁は彼らの存在を黙認し、英国の殖民地統治を直接的に妨害しない限り、その活動に根本的掣肘を加えることはなかった。いわば香港社会には中国の政治が凝縮していた。その典型を1970年代前半に花開いた「香港の黄金時代」に見ることができたのではなかろうか。
このような政治的土壌に、中国の政治が持ち込まれていた。香港の中国系書店の店頭は文革のワンダーランドであり、中国政治を覗き見ることのできる“葦の瑞”であり、そこでは共産党中枢が繰り広げる権力闘争が微妙な形で息づいていた。勝者の雄叫びを聞くことも、敗者が洩らす微かな嘆息に耳を傾けることもできたように思える。
おそらく香港は、中国本土に接している“超小型の中国”であるからこそ存在価値を秘めていたのではなかったか。圧倒的多数の中国人が住みながら、中国ではない。中国とイギリスが綯い交ぜになった香港。それが香港の魅力であり、香港をして香港たらしめた大きな要素だったはずだ。だが、だが返還によって香港は性格を変えざるをえなかった。
2014年の雨傘革命以来、習近平政権が介入の度を加えるに従い、香港の中国化は進んだ。いや直截に表現するなら、習近平政権の“直轄領”に組み込まれてしまったのでは。《QED》