――英国殖民地だった頃・・・香港での日々(香港101)
とはいえ、それら「紙の爆弾」は香港住民に受け入れられるわけもなく、もちろん香港住民が表立って関心を示すこともなかった。それまでの共産党に対する素朴な恐怖・嫌悪に、文革に煽られ「香港暴動」(1967年)を引き起こしてしまった親中勢力に対するマイナスイメージが重なり、大多数の香港住民の共産党に対する拒絶感情は高まっていたはずだ。
そのことはメディア、労組を含む香港に置かれた一切の親中勢力、中国政府系機関も承知していただろうから、香港における文革は限られた親中勢力の内部に止まり、一般社会に“漏れ出し”はしなかった。一般住民が目にできるのは、せいぜいが中国系の書店店頭や新聞紙面からだけであり、それらとの接触を断ちさえすれば、文革によって一般住民の生活が左右されるようなことなどありえなかった。
これを言い換えるなら、中国系の書店と新聞こそが香港の一般住民が文革に接触できる唯一の貴重な接点ということになる。だが、だからといって彼ら一般住民が「文革テーマパーク」「文革ワンダーランド」と化した書店に強い関心を示すはずもない。
だが『大公報』『文匯報』は別格らしく、飲茶などでも両紙に見入る客を見掛けることは珍しくはなかった。無関心を装うが、誰もが大陸の動向を注視していたことは確かだ。やはり共産党政権の一挙手一投足が香港の運命、それは同時に1人1人の香港住民の“明日以降”を大きく左右することを、誰もが本能的に身に染みて知っていたからに違いない。だからこそ、1972年のニクソン訪中の成否に最大限の関心を払ったのである。
とはいうものの、こちらは留学生というレッキとした、正真正銘の、天下晴れての野次馬である。暇さえあれば――じつは四六時中がヒマではあるが――商務印書館、中華書局、三聯書店、南方書店など「文革テーマパーク」「文革ワンダーランド」を覗き、店頭に並べられた文革派の「紙の爆弾」を手あたり次第買い込んだ。
『資本論』からはじまって共産主義、社会主義、唯物史観など関する西洋文献の翻訳書からはじまって、中国人の手になる歴史書、文学書、哲学書、実用書(料理、養豚、裁縫など)、はては児童書から絵本まで、およそ毛沢東に率いられた共産党の正統性、毛沢東思想の無謬性、文革の必然性(「造反有理」「革命無罪」)を訴えない印刷物はなかった。
その大部分は上海人民出版社の出版で、表紙を開けると最初のページに「毛主席語録」が掲げられ、当然のように簡体字で横組みで印刷されていた。ところが奇妙なことが起きたのである。1972年の初頭だったと記憶するが、巻頭に「毛主席語録」はなく、簡体字ではなく繁体字、さらに縦組の書籍が店頭に置かれていたのだ。『柳文指要』(全十四冊 北京・中華書局 1971年)を初めて手にした時の新鮮な驚きは、やはり忘れ難い。
著者の章士釗(1881~1973年)は共産党政権成立に協力した無党派人士。故郷が毛沢東と同じ湖南省長沙で、毛沢東の古典文学上の師匠とも伝えられていた古典文学研究者が、唐代の文学者で思想家でもあった柳宗元(773~819年)の残した文章(『柳河東集』)を精緻に考証し、一生を賭して書き上げたという。
巻頭の「出版説明」には、章士釗は「柳宗元の『民を以て主と為す』の思想を極力評価し、韓愈の『民を以て仇と為す』という誤りを論駁している」と記されている。ここで中国人得意の「借古諷今(古を借りて今を批判する)」の政敵批判・追及の手法に則るなら、文革を巡る当時の客観状況からして、『柳文指要』が単に章士釗の畢生の仕事を世に問おうとしたものでないことぐらいは想像できる。やはり政治的なウラがありそうだ。
「民」が「主」か。はたまた「仇」か――意味深な命題は、いったい何を問い掛けているのか。『柳文指要』の香港登場は、一般に毛沢東派が勝利する形で進んでいると伝えられていた文革だったが、はたして新たな事態でも発生したのか。疑問が疑問を呼ぶ。《QED》