――英国殖民地だった頃・・・香港での日々(香港83)
横浜中華会館理事長孔雲生からの書簡に対し、東華三院は翌(11)月9日付けで次のように返事している。
――「各節備悉一切」、つまり作業の段取りは全て整っているので安心願いたい。目下、長生店に蝦苟艇につき尋ねたところ、高明県の場合は古老三洲に陸揚げするしかなく、香港からの費用は「参拾五元六毫」。香港の税務司での輸出手続きを完了して、はじめて運棺が可能となる。このような現状を譚理平にお伝え願いたい――
その後、譚理平が父親の棺に付き添って横浜から神戸・香港を経て高明県に向かい、父親の「入土為安」を見届けたのかどうか。その後を知りたいものではあるが。
いずれにせよ棺、箱、袋、あるいは旅行鞄であれ、個人であれ集団であれ、異土で亡くなった人々の魂の憑代である遺体や遺骨は、東華義荘をハブとして世界各地のチャイナタウンと故郷の広東省各地を結ぶ運棺ネットワークを利用して故郷に運ばれて行ったのだ。
死者も生者も共に切望する「入土為安」ではあるが、戦争や政治的激変などの不測の事態によって叶わなくなる。
香港と広東間の交通の往来は、盧溝橋事件勃発の翌年に当る1938年には支障をきたす。すると、当然のように蝦苟艇の運航も途絶えがちになる。1940年末に日本軍による香港統治がはじまると、香港から広東各地への蝦苟艇の運航は完全に停止した。そこで遺体や遺骨は東華義荘での“長期滞在”を余儀なくされる。当然のように施設は手狭になるばかり。
これに輪をかけたのが1946年半ばから始まった国共内戦である。これまた当然のように、蝦苟艇に棺を載せて香港と広東各地を往復できるような社会情勢ではない。そこで1947、48年の両年に荘房、つまり棺や遺骨を安置する部屋が増築されている。
だが、1949年の中華人民共和国建国を境に香港経由の「入土為安」の道は途絶えがちになり、1952年になると運棺は一時停止されてしまった。
東華義荘の記録に拠れば、大陸で毛沢東原理主義に突き動かされた過激で理不尽極まりない文化大革命が猛威を振るった1960年代後半は、東華義荘に最も多くの死者が滞留していた時期でもあった。600を超える棺、8千柱以上の遺骨が故郷を目前にして「入土為安」も果たせぬままに、「死者のホテル」で虚しく時を過ごさざるをえなかったのである。
その後、香港内の他の墓園に移葬するなどの処理を進める一方、2004年には施設の全面改修を終え、翌(2005)年には香港政府やユネスコから特別遺跡として表彰されている。
因みに日本の華僑社会においては、1873(明治6)年に神奈川県が横浜華僑に専用の墓地用地を貸与しており、華僑の棺はここに集中して埋葬されることになった。だが、あくまでも「宅兆」と呼ばれる仮安置という措置であり、基本的には3年から8年に1回の割合で香港経由で故郷に送り届けられていた。
1923(大正12)年に横浜からの船舶による運棺制度が中止となり、来世でも仲間と一緒に過ごせるようにと日本国内に設けられた専用の共同墓地に埋葬するか、墓地内の安置所に納められるように改められている。明治6年以前は、その都度、適当な便船を探し出して故郷への運棺を委託していた。
たしかに東華義荘は特別な施設であり、我われの常識では想像すらつかないような存在といえるだろう。だが、このような施設もまた現在の香港――世界の金融センターであり、一国両制の“修羅場”――の一部を構成しているという事実だけは忘れるべきではない。
東華義荘に象徴される死者(というより死体、あるいは遺骨)の“取り扱いぶり”には、時に政治情勢が影を落とす。そこに、日本人がついぞ思い至ることのなかったであろう中国庶民の、つまり漢族一般の死生観が顔を覗かせているように思える・・・のだが。《Q