――英国殖民地だった頃・・・香港での日々(香港43)
マッチ箱より少し大きめの豆腐の一面に切れ目を入れる。そこにひき肉を押し込んで油で揚げて、餡かけ風に煮込んだものが白飯の上にタップリ。当時、豆腐料理を好んでいたこともあるが、やはり1.2元の最低価格が最大の魅力だった。
懐に余裕がある時には3元ばかりフンパツし雪菜扣肉飯を注文。日本の野沢菜漬けに似た雪菜とブタのあばら肉の塊を甘く煮込んだ料理が白飯の上にドッサリと。豪華で栄養満点だが、慣れ親しんだ豆腐飯の味には遥かに及ばない。
香港の豆腐は旨い。水質が良いはずはないのだが、それでも不思議に味わい深かった。ヒマに任せて覗いた市場で目にする豆腐は、日本のモノに較べ遥かに固く巨大。一片が30㎝超ほどの四角形で、厚さは3~4㎝ほど。客の注文に応じてマッチ箱大に切り分けビニール袋に入れ、その口を枯草の茎でクルクルッと結わえてくれる。
この枯草の茎は細く柔らかく、意外にも強靭だ。冬が近づくと、2mほどの長さの太い青竹の前後に何匹もの生きのいい鯉を吊り下げて鯉売りが歩いた。この枯草の茎で、全長が40㎝は優に超える丸々と太った鯉をエラ辺りで固く縛ってあった。
鯉売りの歩調に合わせるかのように、鯉が前後左右にユッタリと揺れる。揺れるに従って、陽の光を浴びた鱗は金や銀に光り輝く。その姿は、喧騒の街には似つかわしくないほどに優美だった。鯉売りの掛け声がどのようなものだったのか。今は定かではない。
香肉(いぬにく)と並んで当時の香港の冬を彩る風物詩といったところだが、あれから半世紀。生きた鯉の行商なんぞ、すでに香港からは消えてしまっただろう。どだい世界の金融センターと化し、カネ儲けの効率と生産性の追求に狂奔する香港で、あんな悠長で呑気な商売が成り立つわけがなかろうに。
振り返れば香港国家安全法などと言った物騒な法律で網を掛ける必要のないほどに、当時は長閑だった。たしかに雑然とした雰囲気が横溢してはいたが、街では不思議なくらいにゆったりと、しかも活き活きとした時間が流れていたように思う。
その頃のことだ。佐敦道で不思議な光景に出くわした。
車が激しく行き来する車道の端を歩道ギリギリに、子どもが猛スピードで走っている。だが、よく見ると子どもではない。レッキとしたオトナだ。顔付きから40前後か。その人は台車の上に正座している。歩行不自由な足を庇うために、手作りと思われる台車――40㎝×50㎝ほどの板の裏側に4個のゴロが打ち付けてある――で移動しているのだ。
交差点の手前で左に急カーブ。上半身を後ろの方に反らせると、重心が移動して台車の前の部分が浮き上がる。浮き上がった前半部が段差のある歩道に乗り上げると、今度は反り返った上半身を前方に倒し再び重心を移動させる。すると後輪が浮き上がり、台車は歩道面と平行になって着地する。試行錯誤を経て身に着けたワザだろう。両手に持った木片で地面を前後に捉えスピードを上げながら、何事もなかったかのように走り去った。
その間、30秒ほどだったろうか。一瞬の唖然の後、逞しく生きるその姿に感動がジワリ。彼の背中に卑屈さは微塵も感じられない。むしろ雄々しく生きる清々しさが漂っているようだ。これこそが毛沢東が力説していた「自力更生」ではなかろうか、と。大陸における口先だけのそれではない。ホンモノの「自力更生」を目の当たりにした思いだった。
当時、トゲトゲしい政治的対立は消え、街は不思議な明るさに包まれていたように思う。その背景として考えられるのが人口構造の変化だ。大陸との往来を閉じた1950年からの20年間に香港で生まれ、育ち、教育を受けた若者世代――いま風に表現するなら「香港人1.0世代」――が全人口の半数を超えたのが1971年である。その後の香港を担ったのは彼らだ。どうやら我が青春は、香港の青春時代に重なるという幸運に恵まれたらしい。《QED》