――「ポケット論語をストーブに焼べて・・・」(橘56)
橘樸「道敎概論」(昭和23年/『橘樸著作集第一巻』勁草書房 昭和41年)
かくして橘は、「今日から云へば道敎の理想は、之を『幸福』の一語に要約することが出來る」と結論づけた。道教理想の幸福は福(子沢山)禄(財産)寿(長寿)だろう。
「近世の通俗道敎の理想は、煎じ詰むれば專ら『幸福の追求』にある」。では「幸福は如何にして求められるか」。「大體に就て言へば、道德的行爲が其儘に現世及來世に於ける幸福」を約束する。「道德生活を望むにしても、其の動機は多く功利的であり、『惡いことをすれば地獄に落ちる』と云つた樣な恐怖心から、止むを得ず與へられた道德律に囓り付くと云つた樣な風がある」。だから道教は「極めて幼稚又は俗惡」である。
――以上、橘の一般民衆間における道教に対する考えを要約してみた。たしかに橘の道教分析は現地調査をも踏まえ詳細を極めるが、どうも木を見て森を見ずの感が深いように思えて仕方がない。衒学趣味に過ぎて、鼻白むばかりだ。なぜ日本は、この手の衒学的道学者を生産し続けたのか。百害あって一利なし、だろうに。
橘は「中国人の宿命觀は原始以來引續き今日に及んだところの精神的鐵鎖である」とし、「道敎が斯る宿命觀の支持者であったと非難する」ような一般的見方を否定し、じつは「道敎經典の作者や其他の進歩した人々の間には、中國民族から宿命觀を排斥する事に絶えざる努力を捧げて居る」と説く。
だが「其効果が至つて微弱」であった。それというのも、「今迄中國に科學的思索の方法の發達しなかつた事や、敎育の普及しなかった事にも因る」。その最大の要因は「政治及び社會組織の惡かつた爲に、中國人の生活が精神的にも物質的にもひどく壓迫されて來た事にあると思ふ」とした後、「生活が不安であれば、其の必然の結果として種々なる迷信が起こり、殊に宿命思想が勢力を張るのに何の不思議も無いのである」と結論づける。
そこで橘によれば「中國人から宿命思想を排除する徹底した方法」として、「政治及び社會の根本的改革と云ふ事に歸着するのであるが、それと同時に、深く人心に喰い入つて居るところの民族的宗敎、即ち道敎の改革と云ふ事も頗る必要であり、且つ有効な方法の一つである」となるわけだが、この考えには疑問を持たざるを得ない。
「今迄中國に科學的思索の方法の發達しなかつた事や、敎育の普及しなかった事」についての議論は一先ず措くとして、「中國人の生活が精神的にも物質的にもひどく壓迫されて來た」要因を考えるなら、「惡かつた」ところの「政治及び社會組織」だけが災いしたわけではないだろう。それ以外にも、「中國人の生活が精神的にも物質的にもひどく壓迫されて來た」要因があったはずだ。だから「政治及び社會の根本的改革」だけでは「中國民族から宿命觀を排斥する」ことは出来ないように思う。そこで過酷な自然という避けることの出来ない要因を指摘しておきたい。
これを言い換えるなら橘の道教分析には、肝心な過酷な自然と言う要素が欠落しているのだ。あるいは橘の中国論もつ大きな欠陥は、この一点に集約されるようにも思う。
ここで橘とは違った視点から道教を考えてみたい。
そこで取り上げたいのが、日本人では青木正兒(明治20=1887年~昭和39=1964年)であり、中国人では林語堂(1895年~1976年)である。
京都帝国大学で支那文学を修めた青木が長江下流域の江南地方を旅したのは、橘が中国論を公にする拠点とした『月刊支那研究』を創刊した大正13年より2年早い大正11(1922)年だった。ということは、中国共産党が上海フランス租界で設立された1年後だ。
1923年には湖南省の長沙で学生による排日運動が発生し日本海軍陸戦隊が派遣され、24年に合作した国共両党は26年に軍閥打倒・全国統一を掲げて北伐を開始する。《QED》