――「臺灣の事、思ひ來れば、感慨無量・・・」――田川(14)
田川大吉郎『臺灣訪問の記』(白揚社 大正14年)
つまり香港では、「中央には幾人かの西洋のご主人サマ」がいて、その下に「若干のおべんちゃら使いの『高等華人』とお先棒担ぎの奴隷のような同胞の一群がいる」。これがいわば殖民地エリートに当たる。そして底辺に膨大な数の「ひたすら苦しみに耐えている『土地の人』」がいる。こういった権力の三層構造が殖民地支配の仕組みだった。おそらくインドでも事情は同じだったに違いない。
ここで若干の解説を。
魯迅が「我われの先輩」と記す「苗や瑶」は、中国南方の辺境に逼塞する少数民族の苗族や瑶族のこと。本来、漢族は瑶族など少数民族を「化外の民」、つまり漢族の文明に浴したことがない野蛮な民(=獣)として扱っていたから、「?」をつけて「?」と記していた。共産党政権はタテマエ上では「民主的」で「人道主義的」であることを掲げているがゆえに、「?」から「王」に替えたわけだ。だが少数民族であればこそ本質的に獣視している。これがホンネだろう。
古来、漢族は新しい生存空間を求めて怒涛のように南下を繰り返してきた。漢族による「熱帯への進軍」である。進軍する漢族に自らの土地を奪われたがゆえに、やむを得ず少数民族は山中に逃れた。中国の南方辺境の痩せた山間の土地に、好き好んで細々と生きてきたわけではない。彼らもまた際限なく「熱帯への進軍」を繰り返す漢族の犠牲者なのだ。当時の?介石政権や反動勢力から逃れていた魯迅だからこそ、漢族の横暴に苦しめられ続けた少数民族を「我われの先輩」と呼んだのだ。
さて本題に戻るが、やはり田川は西欧列強トップランナーであるイギリスによる殖民地支配の実態に、哀しいかな無知が過ぎた。イギリス人が「治者として其大綱を握」るまでの酷薄極まりない殖民地支配を忘れてはならない。日本のように「同洲同文の人種」などという甘い考えは全くない。支配と被支配の間には厳然とした、超えるに超えられない高い壁があったのだ。だからこそ、「英人は單に治者として其大綱を握」るだけで植民地支配を貫徹できたのである。
ここで参考までに、時代は前後するがアラブ世界でイギリスの殖民地支配に苦しんだ歴史を振り返るアミン・マアルーフ(1949年レバノン生まれ。祖国の内戦を機にパリ移住。小説家、ジャーナリスト)が著す『世界の混乱』(ちくま学芸文庫 2019年)の一節を引用しておく。
「西洋の列強は自分たちの諸価値をかつて所有していた場所に本気で根づかせようとしたことがあったでしょうか? 残念ながらそうではなかったのです。インドであれ、アルジェリアであれ、他の場所であれ、西洋の列強は、彼らに支配された『現地人』が、自由、平等、民主主義、企業精神、あるいは法治国家の理念を掲げることを決して認めず、それどころか現地人がそれらを要求しようものならたえず弾圧していたのです。/その結果、植民地のエリートたちは、植民者の意志に抗してそうした諸価値をみずからの手で奪い取り、それを植民者に突き返すという選択しかなかったのです」
「一般的に、列強の政治を動かしていたのは、貪欲な植民地会社であり、その特権を手放すまいとする植民者たちなのであって、彼らにとっては『現地人』の発展ほど恐ろしいことはないのです。(中略)理想主義者と目された官僚が謎の死を遂げることすらありました」。
西洋列強の殖民地支配基準に照らすなら、田川が力説するような心優しい考えは「謎の死を遂げること」になる「理想主義者と目された官僚」のそれではないか。《QED》