――「臺灣の事、思ひ來れば、感慨無量・・・」――田川(10)田川大吉郎『臺灣訪問の記』(白揚社 大正14年)

【知道中国 1973回】                       一九・十・廿

――「臺灣の事、思ひ來れば、感慨無量・・・」――田川(10)

田川大吉郎『臺灣訪問の記』(白揚社 大正14年)

「日本の臺灣を併合し得たるは」日清戦争に勝利したからであり、勝因は「日本が方今の世界的潮流に順應し、十九世紀の文明に同化し」、清国の敗因は「支那が方今の世界的潮流に反抗し、十九世紀の文明に衝突した」からである。かくて「兩國の勝敗は、明らかに世界の大勢之を決した」。

「十九世紀の文明」を前にして、「日本の如く、己を空ふして、彼の長を採り、一切萬事、歐米先進國の蹤を逐ふたる國」はなく、「支那の如く内を尊んで外を卑み、自國の文明なるを知つて、列國の文明なるを知らず、世界の氣運に反抗したる國家」はない。

これを要するに、田川によれば日清戦争は日本と清国の戦いであることはもちろんだが、一面では「十九世紀の文明」を巡る戦いでもあった。そこで「日本若し敗るれば、日本一國の敗れに止まらずして、實に彼等の誇りとする十九世紀の敗れに歸」すことになり、「支那若し勝てば、實に彼等の侮笑、貶遠する保守勢力の勃興を招くの虞れなり」。

いわば日本が台湾を領有するに至った訳は、「世界の大勢の中に、日本勝ち、支那敗るゝの理存し、支那勝ち日本敗るゝの理存せざりし」からであり、「臺灣此の如くして支那より日本の手に歸した」ことになる。そこで「臺灣の統治策」は日本を勝利に導いた「世界の大勢を洞察し、之に順應して悖らざるにあり」、つまり「世界の大勢」に沿ってなされるべきだ、ということだろう。

ここで田川は列強の殖民地策を比較検討したうえで、「日本の臺灣に於る施政は、印度に於る英政」に倣ったなら、「更に數等地を抜く好成績を収むること、必ずしも至難の業にあらざるべし」とする。だが「先住種族の驅除排斥は、如何なる方法を口にするも、到底成功し得べからざるものなることを察すべし」。かくして「臺灣の事須らく先ず此理を思ふべきなり」と強調した。

田川は台湾の種族人口構成を概説した後、「將來の臺灣人」を想定する。

日本政府は「幸に從來の土人驅除排斥する惡政策を採らず、寛厚の旨を體して之を愛恤存留せんと」しているが、如何せん彼らは「陋風蠻俗に安んぜんと」するばかり。「已に支那の文明にすら駭心驚倒して、之を峻拒し、之と抗爭」するほどだから、彼らは「日本の文明を収受して之を鑑賞し受容」できないばかりか、「今日に於て日人と親和修好するが如くは一時の假觀のみ」。いずれ日本人移住者が多くなれば、彼らは「甞て支那人に抵抗したる如く、これと衝突して、終に粉碎自滅すべし」。これは「文明の理法」に照らせば当然の趨勢であり、であればこそ日本人は「世界に少なからざる消滅人種の中に、一種の光輝を放ち其最後を飾らしむる若干の手段を講ずれば足れりとすべし」。

この田川の説は、21世紀初頭の現在から考えれば如何にも残酷極まりないと思う。果して当時、これが一般的な考えであったということだろうか。ところで「一種の光輝を放ち其最後を飾らしむる若干の手段」の「若干の手段」とは、いったい、どのような手段を想定していたのか。やはり日本人としては、?介石以前の台湾についての一方的で単純・直線的な考えを再検討すべだ。やはり“結果オーライ”で済ませてしまってはならない。

次いで田川は台湾における「支那人及日本人」について、「政治的」と「營利的」の2方面から考察している。

「政治的方面に於ては」、統治当局が明確に日本人優遇策を執って彼らを「驅逐することあらば」、「支那人は已むを得ずして去る」。だが、それは「一旦の事のみ、久しからずして種々の名義を假粧し、成法以外に欺瞞粉飾して入り來らん、例へば外人の番頭手代、若しくは代理者の如き名義を口にしても」。やはり“人蛇”は煮ても焼いても喰えない。《QED》


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