――「『私有』と言ふ點に絶大の奸智を働かす國である」――竹内(3)
竹内逸『支那印象記』(中央美術社 昭和2年)
上海で知られた料理屋の小有天で席に着くと、「矢繼早に料理が運ばれて來た」。食事中というのに、店の外から物売りが次々に闖入して来る。「不要!と言はれて素直に出ては行くが、でないと、ぢツと籠を提げたまゝ何時までだつて吾々の食事を頭越しに凝視めてゐる。これもまた支那だ」。
振り返ってみれば半世紀ほど昔の香港で留学生活を送っていた当時、いつも昼飯は場末の労働者向けの食堂で超低価格で済ませたが、ごった返す店内で客の間を縫うように物売りが歩いていたっけ。彼らは店側の許可を取ったわけでもなさそうだし、だからといって店側が彼らを外に追い出そうとするわけでもない。
客は食事しながら買い物ができる。良い買い物ができれば、明日もまた客は食事にやってくる。店内に群れ集う食事客を相手にすればいいのだから、売り手は買い手を探して歩きまわる無駄をしなくていい――店側も食事客も物売りも、誰も損はしない。互利互恵であり、今風の表現に従うなら双?(ウイン・ウイン)の関係というヤツである。
不要といえば素直に立ち去るが、売り手はひっきりなしにやって来て食事中のこちらの鼻先に商品を突きつけるのだから、あまり気分のいいものではない。だが先ずは腹を満たすことに専心すればこそ、やがて彼らの騒がしい掛け声も一種の香辛料に思えてくるから不思議だ。“時と所”を超え、料理屋と客と物売りの関係は綿々と続いていたのである。
「どうせ支那は無政府状態同樣の國だから――こんな國が吾々の直ぐ隣國だとは想像もつかないが」、「先づこんな事に平氣になれるのが支那通の第一期だらう。つまり邊りには無關心で私慾の滿足を第一義と心得ること!」との竹内に従うなら、香港での留学生活の中で、どうやら「支那通の第一期」を通過していたということか。
竹内の上海に戻る。
やはり「人生は錢!錢!錢!だ。公私混淆で千金一攫することもまた一法なる哉だ。それに精力を傾倒することだ。(中略)如何にして錢を獲るかを考へることだ。斯く支那は�へる」。
ここで竹内は支那人の振る舞いについて改めて考える。
「支那人は好事的なことは萬古不易の傾動だが、慾慾複雜なことが好きだ。淫書だけかと思つてゐると料理もその筆法だ」。「兎も角支那人は仕事に念を入れる民族だ。それも義務ではいけない。道樂でなくてはいけない。藝術家だ。だが常に血腥い。同じ極刑なら一と思ひに殺してやればいゝものを、態々穹窿形の橋上に連れ出して、環衆の前で、如何にその首が一刀のもとに落斬されるかを樂しむ。どんぶり水中に落ちたのを見て樂しむ。胸板に墨で的標を描いて銃殺する。體を木枠の箱に容れて、首枷の嵌つた顔だけ出させて置いて、街頭にさらす。食に餓えて死ぬ。この道樂がまた料理に働いて吾々の舌を滿足させる」。だから「萬里長城から翡翠細工に至るまで、この民族は、手をかけることを厭わない」。
「支那を見、支那を感じ、支那を知らうとして來てゐる」竹内の目に映った支那は、「つまり單なる傳統の國である。批判に先立つものは常にこの傳統の形式的尊重である。道義觀にしても風俗的習慣にしてもこの點は執拗である。主義の犠牲である」。
「この國は恐ろしく拝金の國である。贋造錢の大量的な國である。即ち『私有』と言ふ點に最大の奸智を働かす國である」。「支那では、錢を有てる者は一條の龍で、錢無き者は一條の蟲だと言ふ。無數の蟲ケラがその俥に龍を乘せて駛つてゐる譯である」。
かくて「支那に於ける新時代人が等しく悲憤列擧するものは、通貨の統一、南北用語の統一、次に公私混淆の惡弊打破である」。だが「公私混淆の惡弊打破」は不可能に近い。《QED》