――「『私有』と言ふ點に絶大の奸智を働かす國である」――竹内(1)竹内逸『支那印象記』(中央美術社 昭和2年)

【知道中国 1875回】                       一九・三・念九

――「『私有』と言ふ點に絶大の奸智を働かす國である」――竹内(1)

竹内逸『支那印象記』(中央美術社 昭和2年)

 竹内逸(明治24=1891年~昭和55=1980年)は美術評論家で随筆家。第一回文化勲章受章者で、父親は近代日本画の先駆者と言われた竹内栖鳳である。

 「序」には、『支那印象記』は1920(大正9)年と1921(大正10)年の「前後二回の支那旅行での産物」とある。1920年は五・四運動の翌年であり、1921年は中国共産党が成立した年である。ということは、風雲急を告げる中での旅行だったことになる。

 竹内によれば「支那に行する人々とはをのづから二ツに大別することが能きるだらう」。「第一は、政治とか、宗敎とか、藝術とか、産業とか、商業とかを知らうとしての人々、即ち視察を本據とする人々」で、「第二は、漫然支那へ渡る人、視察を從とし、或は視察を無視して、見物を主體として支那の風物に觸れやうとする人々」で、「大局に於て私はこの第二に屬する旅行者だと決めてゐる」のだ。

 「狹量と偏見。猜疑と非難」とが「渦巻く孤島」を離れ、「上海、南京、漢口、北京、奉天、京城を囊中に納めたPublic Park」に遊ぼうとする竹内は、「最早支那は(中略)散歩區域となつて了つた。無論これを政治的見解から、民族の勃興といふ點から、解釋する人もあるだらうが、それは本著者の關する方面ではない」とした。その「Public Park」を「吾々の文化と因縁深く、同じ文字、同じ顔色、同じ米を食つてゐる」。にもかかわらず「其處には全然別箇の世界としての新鮮感もある」との思いも抱いている。

 日本を「狹量と偏見。猜疑と非難」とが「渦巻く孤島」と形容し、広い大陸を「Public Park」と捉える竹内は、確かに「政治的見解から、民族の勃興といふ點から、解釋する人」ではない。

 『支那印象記』には挿画が多く描かれているが、作者によれば「私と同樣、否私以上に支那を愛し支那に憧憬れる私の父」だそうだ。ということは竹内もまた「支那を愛し支那に憧憬れる」のだろうが、そんな竹内に「一鞭を食らはせた青年がある」。門司から上海に向かう諏訪丸の船上を肩を並べて歩いた「歐米を巡遊して故國へ歸る一支那人である」。

 「現代支那がこんな悲慘な状態に在る原因は、過去の帝王が無暗と野心に驅られ、領土を擴張し過ぎた爲です」。「國を廣くして言語が通じない。そしてその廣いと云ふ土地が大略墓場になつてゐるのです」。

 ここまで聞き、この人物は「多分現代支那に於ける新人の部に屬する人だらう。歸朝後方々で演壇に立つ人だらう」と思う。そして、その政治的立場を「親日か、排日か、排英か、國粹か、親米か、共産か・・・・・」と推測した。

 彼は「流暢な米語」で続ける。

 「その墓場を造営するまでの順序が、勤勉な産業で得た資力と精力を空なものにしてゐるのです。(中略)覺醒るなどゝはまだまだ遠いことです。どしどし友邦の文化を觀察しなければ駄目です。日本にも敎へて貰つて、軈ては合同の世界的文明を造らなければ噓です」と。そして「だからして親日主義は最も必然です!」と断言した。

 これに対し竹内は、「現代支那を歩くにも、唐の文化及びその影響、唐へ注集されるべき支那の本質、宗敎との關係、さうしたことを考へずに歩くことは能きないだらう」が、同時に「口を惡くすれば、現代支那は、親代々の土地や寶物や葬具を入札に附して居食ひ状態に在ることも事實だらう」。「唐宋以後の支那は、次第に善の善用を忘れて、惡の効用に終始した」と捉えた。かくてし「現代支那」とは「虫のいゝ平和な理想主義者」が群れ集い、「紅燈、亞片、美食を生活の基礎として、祖先崇拝と墓場の築造とを社會道德の第一義なりと許して了つた」ような「唐代を夢見る果敢なき回想社會」と捉えるのだ。《QED》


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