――「支那の國ほど近付いてあらの見ゆる國は無し」――關(11)關和知『西隣游記』(非売品 日清印刷 大正七年)

【知道中国 1827回】                      一八・十二・仲四

――「支那の國ほど近付いてあらの見ゆる國は無し」――關(11)

關和知『西隣游記』(非売品 日清印刷 大正七年)

 

關は「支那人の敎育の缺乏は、單に公共的事物に對して著しく感ぜらるゝのみならず、其私的生活に於ても亦然り」と指摘する。じつは「彼等は無學を耻とせず」、「中流以下階級の子弟多くは皆無敎育者なり、無知識、非文明の國民を基礎として、共和民政の確立を望む亦難矣哉」。

また「有名無實の國家」とも見做す。日清戦争敗北によって「其の性體の内外に曝露せらるゝや、眠れる獅子は却りて死せる豚として(世界から)認めらるゝに至れり」。「堂々たる六千年の歷史的大帝國も、今や一朝にして亂離骨灰、名許りの共和民主國、統一も無ければ秩序も無し」。現地で接してみれば判ることだが、やはり「社會ありて國家なく、人民ありて國民無し」。建築、美術、装飾などは「遠方より眺むれば實に結構、輪奐、美を極むる」ようだが、「近く之を觀れば幼稚にして粗末、不器用、不體裁なること甚し、以て國家國民性を表現するものに似たり」。つまり、なにからなにまでがハリボテでダメ。体裁を取り繕っているだけ。これが結論ということになろうか。

そんなハリボテ国家やらハリボテ国民を相手にしなければいいのだが、欧米列強が手を突っ込んでくるものだから、日本としても対応しない限り、国が立ち行かなくなる。そこで英国と同盟を結ぶことになるのだが、日本の影響力が強くなってくると英国としても甚だ心愉しめない状況に至る。

「英國人の日本に對する惡感は漸く甚しきものあり、政治上の同盟國は、寧ろ經濟上の敵手たるの觀あり、支那に於ける排日的議論運動の中心が往々に是等材在留英國商人等によりて煽動せられ、英本國に於て時に非日英同盟の言論を傳ふることある、多くは此の關係より生じ來れる現象」である。

だが英国商人が反日を煽動しようとも、「地理的、歷史的、及び習慣、風俗、言語等、日本の利便は彼等諸外國民の如何ともする能はざる所」だから、「日本は實に無敵なり」。だが「唯恐るべきは拙劣、無能の本國政府の外交によりて、支那の民心を驅りて日本に離叛せしめ、却りて我が不利を招致するに至ること是なり」。

おそらく「地理的、歷史的、及び習慣、風俗、言語等、日本の利便は彼等諸外國民の如何ともする能はざる所」だから、「日本は實に無敵なり」という“確信”が生まれ、かくして「日本は既に不抜の地歩を占めたから」、「支那に臨むには所謂王道を以てする必要がある」などといったアンチョコな結論に立ち至るのだろう。

だが「幼稚にして粗末、不器用、不體裁なること甚し」い国民に、どうやって「所謂王道を以てす」べきなのか。これを実際の国策として遂行する場合、広大な国土に生きる膨大な人口を相手にして、費用対効果を考えたうえで実行に移すに具体的方策はあるのか。単なる思い込みや軽口、あるいは勢いに任せての発言は厳に慎むべきだ。

これまでもみてきたし、再三にわたって記してきたと思うが、「地理的、歷史的、及び習慣、風俗、言語等、日本の利便は彼等諸外國民の如何ともする能はざる所」といった“根拠皆無”な自信(過信?あるいは過度の思い込み)こそが、日本の大陸政策を大きくネジ曲げてしまったといえる。これは確信をもって指摘できる。「地理的、歷史的、及び習慣、風俗、言語等」について「日本の利便」など、どだいありえない。

酷評が許されるなら、こう言いたい。当時、大学同窓を訪ねての母校自慢の物見遊山程度で感じたような、まさに一知半解の知識をひけらかし、それを基に国策を論ずるといった愚が横行していたようならば、総合的でまともな大陸政策が策定できるわけがない。いまこそ強く言いたい。「お前ら、ボ~ッと生きてんじゃね~よッ」。お粗末に過ぎる。《QED》


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