――「支那人に代わって支那のために考えた・・・」――内藤(2)内藤湖南『支那論』(文藝春秋 2013年)

【知道中国 1695回】                       一八・一・念八

――「支那人に代わって支那のために考えた・・・」――内藤(2)

内藤湖南『支那論』(文藝春秋 2013年)

「支那でやる立憲政治はどういうものであるか、支那人はそういう細かい考えはない」。「ただ立憲政治をやりさえすれば国が盛んになると思っておる」。だが「立憲政治が順当に行われる基礎」である「中等階級の健全ということ」に彼らは考えを及ぼさないというのが、内藤の主張である。

振り返れば�小平が「4つの現代化」――工業、農業、国防、科学技術――を掲げて対外開放に踏み切った際、先ず目指したのは重厚長大産業だった。その象徴ともいえる上海の宝山製鉄所を建設するに当たって、当時の世界最先端技術を駆使した新日鉄の君津製鉄所級の施設を日本側に求めたと聞く。いわば世界最先端技術を取り入れさえすれば、君津製鉄所を同じような質と量の鋼鉄が生み出されると考えたわけだろう。

ここで内藤の考えを援用するなら、当時の中国のレベルで動かす製鉄所はどういうものであるか、中国人はそういう細かい考えはなかった。ただ世界最高レベルの製鉄所さえ建設すれば君津並みの最高品質の鉄鋼を大量に生産できると思っておった。だが最先端技術を駆使した製鉄所を十全に稼働させるためには、「中等階級の健全」、つまりは一定レベルの科学技術と民度が不可欠だった。にもかかわらず�小平以下の当時の共産党首脳は、なにがなんでも君津級の最新製鉄所を求めた――となろうか。

当時を思い出せば、たしか京都大学で国際政治学者を講じていた高坂正堯が近代化とは、技術もさることながら、その近代化を支えるヒト(ノーハウ)が必要不可欠と説き、�小平が性急に進めた近代化を戒めていたと記憶する。

そういえばアヘン戦争敗北後、清国指導層と知識人は敗北の原因を清国の貧しさと弱さに求め、かくて富強を目指すことになったが、最初に思いついたのが「中体西用」策だった。中華の理念は正しい(中体)。ただ西洋の近代的な機器(西用)――具体的には西洋の兵器に敗れただけ。だから、「中体」に「西用」を組み合わせれば、蛮族に近い西洋列強に敗れるわけがない。「中体」は絶対的に正しいのだから、と考えた。そこで西洋の最新兵器(西用)をセッセと取り入れ第2次アヘン戦争(アロー号事件)となるわけだが、敢え無くもイギリス・フランス軍に惨敗を喫してしまう。

かくて次に考え付いた富強策が「洋務運動」ではなかったか。つまり機器というハード面のみを取り入れてもダメ。やはりハードを支える社会の仕組みと人材を養成することが肝要だというわけで、近代的な兵器工場を作り、翻訳体制を整え西洋から最新技術を導入し、軍隊の近代化を図り、多くの留学生を送り出した。この時、彼らを多くアメリカが受け入れたことから、中国社会に親米感情が根付く。同時並行的にアメリカが意図的に大量の宣教師を送り込んだことも、親米感情の涵養に大いに与ったといえる。たとえばルーズベルト大統領の母方の実家は対中貿易(アヘン?)で財を成し、第2次大戦後のアメリカにおける一貫して主導したJ・K・フェアバンクは父親が宣教師だったことから幼少時を中国で過ごしているはずだ。孫文夫人の宋慶齢や?介石夫人の宋美齢の父親である宋嘉樹(チャーリー宋)はアメリカ人宣教師の知遇を得て留学し、メソジスト派宣教師として帰国した後、聖書印刷を手始めに財を成していった。

このように、中国の親米感情はアメリカにおける親中感情と共鳴し、現在につながり、米中関係の底流に一貫していることを忘れるべきではないだろう。

本題に戻る。かく「洋務運動」に励んだわけだが、また戦争して敗北を喫した。然も相手が日本であるから、さぞや愕然としたはず。そこで彼らは敗北の要因を、日本にありながら清国に備わっていないもの――憲法と議会、つまり立憲主義に求めたのである。《QED》


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