――「支那人に代わって支那のために考えた・・・」――内藤(4)内藤湖南『支那論』(文藝春秋 2013年)

【知道中国 1697回】                       一八・二・初一

――「支那人に代わって支那のために考えた・・・」――内藤(4)

内藤湖南『支那論』(文藝春秋 2013年)

「中体西用」で出発した清末の富強策が失敗して「洋務運動」に変じ、「変法自疆」を経て「滅満興漢」を掲げる種族革命(辛亥革命)となり、やがて「漢」そのものの根本理念の象徴である孔子への批判(五・四運動)に転じ、ついには共産党一党独裁政権に辿り着いた変遷を振り返るなら、現在の富強策である「共体市用」も、いずれは共産党統治それ自体の正統性に対する根本疑念を呼び起すようにも思える。だが喜ぶのは早い。「支那國は滅びても支那人は滅びぬ」(佐藤善治郎『南清紀行』良明堂書店 明治44年)のだから。

話を内藤に戻すと、彼は立憲主義を進める前提に「中等階級の健全ということ」を置く。そして、明治維新が大過なく進められた後、「木に竹を接いだように外国の制度を持って来て行ったけれども、それが少しも不都合なしに行われたというのは、すなわち中等階級が健全であったからだ」とする。つまり日本において明治新政の成功を導いた「中等階級の健全ということ」が、はたして清国にみられるだろうか、ということだろう。

「ところが支那では今始めて立憲政治をやるという場合、どんな階級が中心になるかということはよほど分らぬ」。日本で立憲政治を支えた士族、その「士族と密接して最上級の農民があった」。だが士族もいなければ「支那の百姓はどこまでも百姓」に過ぎない。「それであるから支那で立憲政治を維持すべき階級が現在あるかどうかということが大なる問題である」。この点が肝要であるにかかわらず、「そういうことはあまり近頃の評論家でやかましく云う人はありませぬ」と苦言を呈しているところをみると、当時も評論家は日々変化する事務情勢を論ずることに関心を払っても、中国社会を歴史的視点から根元的・構造的に論ずることはなかったということか。なんだか、昔も今も同じようだ。

さらに内藤は立憲政治の前提である国会について、「日本では国会を造るについては、納税を以て選挙資格にしてある」。「ところが支那では人民の納税額の分っておるのはどこにもない」。つまり有権者を選ぼうにも選ぶ基本が見当たらないのだ。「そういう有様で選挙資格の標準にも何にもなるはずのものではない」のである。こんな状況のままで強行するなら「世界じゅう類の無い支那流の立憲政治というものが出来上がるかも知れぬ」。つまり国会が誕生したとしても社会的基盤が皆無であり、「それだから支那では国会が開けたからというて大した効能の無い代りに大した騒動も起らぬだろうと想像もされる」。

ここで一転し、内藤は「立憲政治の根柢となるべき思想があるか無いかという」ことを、「存外輿論の国である」ことと「思想の潮流」の2つの点から論じている。

 前者についてだが、「支那は国の制度の上からいうと、無限の君主独裁の国である」が、同時に「非常な輿論の国であ」り、「どこから出て来るか分らぬ多人数の評判ということに重きを措く国である」。「独裁政治の国ではあるけれども」、天子は「人の評判で官吏の進退を決する」。一方、日本では若者が集まって政治的言動を発したところで「青二才がそんなことをするなと叱りつけて置くくらいのものだが、支那ではその青二才のやることが大変に応える」。極論するなら「青二才」の政治的言動に、「無限の君主独裁」も時に右往左往するということか。

 総じて昔から「(支那は)輿論に重きを措く国である」とするが、ここで内藤によって持ち出された「輿論」なるものは理路整然とした主張ではなく、時流やら一時の感情に任せての一種の烏合の衆の激発、いわば有象無象の不平不満の爆発と考えれば判らないわけではない。つまり極めてアヤフヤで根拠不確かなものでしかない。かくして「それが支那の立憲政治の根柢となって、随分ぐらぐらした立憲政治が出来るだろうと思う」。これが内藤の予測する「一種の支那の国情上から立憲政治」の姿ということになるろうか。《QED》


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