【黄文雄】「台湾は日本の植民地だったのか」(下)

【黄文雄】「台湾は日本の植民地だったのか」(下)

黄文雄氏の「日本人に教えたい本当の歴史、中国・韓国の真実」』より

当時の600万円といえば、日本にとって巨額であり、大きな財政負担であった。参考までに、明治29年
当時の日本の人口は4,300万人、国家歳出は2億300万円であった。このうち軍事費の9,800万円、さら
に台湾総督府への補助金700万円弱を引いて人口で割ると、国民一人あたりの予算は2円27銭となる。
それに対し、台湾の人口は約270万人であり、台湾への一人あたり予算は3円16銭の計算になる。予算
からして、一人あたりの配分が日本より台湾のほうが多いのだ。そのうえ、台湾では兵役の義務までも
が免除されていた。
何度も言うが、経済的数字から見れば台湾では植民地搾取どころではなかったということだ。台湾が日
本の植民地というなら、日本国民は植民地のために搾取され、台湾を肥らせ、甘やかしていたというの
が史実である。帝国議会では台湾を1億円で売却するという議論が起こったが、それも経済的状況から
見れば分からない話ではない。
児玉源太郎総督の時代に、後藤新平が行った土地調査のことを、「土地略奪」だと中国人学者は歪曲・
捏造して伝えているが、そこには何の根拠もないのである。むしろ、その逆が史実であったことを本
連載で明らかにしていく。
このように日本帝国は、自国民を搾取してまで台湾人の文明開化、殖産興業に狂奔したのである。
「日本の植民地搾取」云々といった捏造はさて置いても、新興国民国家日本は時代的使命を懸命に果た
そうとした。そう見ることこそが、良心・良識ある歴史認識であろう。
戦後、台湾近現代史全体を覆ってきたのは、例によって「反日抗日」史観である。日本人がいかにして
台湾人を搾取、略奪してきたか。台湾人社会が、どれだけ祖国である中国の領土防衛のために「反日抗
日」一色に塗りつぶされたか。それを主張するために、単なる匪賊までを民族英雄に祭り上げるなど、
目を覆うほどの歴史捏造ぶりが続いてきた。この捏造された歴史を、日本の中国・台湾研究者が世に広
め歩いてきたのだ。
しかし、もしも日本帝国がなかったら、台湾は今でも中国最貧の地である海南島以下の地域であっただ
ろうという見方は、現在、ほぼ常識として定着しつつある。
本連載は、まったく捏造でしかない「反日抗日」史観からではなく、生態学、水文学、地文学などの史
観から台湾を見ようとしたものである。無味乾燥なマクロ的経済社会構造分析からではなく、日本の政
治家、軍人、思想家、地理学者、医学者、動植物学者、建築家、技師、さらには歴史文化人類学者、教
育家、言語学者、文芸・文化人など、血と汗と涙で近代台湾の構築に献身した日本人一人一人のドラマ
を集めることで、彼らがいかに台湾の国土開発を計画し、未開の山地を探険・探索し、台湾を近代化に
導いたか分析を試みた。
本書では、上下水道、電気、都市建設、森林保護、治山治水、殖産興業、教育と文化の普及など、台湾
の近代化に貢献した日本人を100人ほど挙げる予定だ。実際は数千、数万、数十万人の日本人が、過去半
世紀の日本時代を通じて台湾の近代化に不惜身命で犠牲となり、大きく貢献しているのだが、全員を取
り上げることは不可能だ。
この数万、数十万人の日本人の並々ならぬ努力や犠牲がなければ、今日の台湾はなかったと私は断言で
きる。その意味で、私は彼らを「台湾をつくった日本人」と称している。その根拠については、今後の
連載を読めば理解していただけるだろう。

日本人しか成し遂げられなかった台湾の近代化

では、日本人のみが今日の台湾をつくれたのだろうか。日本人以外には、近代台湾をつくることができ
なかったのだろうか。答えは「イエス」である。近代台湾の文明開化には、日本精神が必要不可欠な要
素だったのである。そのことについても、後々触れるつもりである。
では、日本精神とはいったいどんなものなのだろうか。それは、新渡戸稲造の言う「武士道」だけでは
ない。
それは、江戸時代までに熟成した日本文化であり、開国維新後の明治人によって、いっそう開花された
精神である。それが文明開化の波に乗り、台湾という南の島でも開花したのだった。
未知への好奇心、異域探険への冒険心、厳密にして徹底している科学探究心、土地を愛する心。日本精
神には、これらすべてが含まれている。そして、その極致として、護国の神となって土地に骨を埋める
ことを台湾人に教えたのが日本人であった。
近代台湾をつくった日本人の功労者のなかで、まず挙げなければならないのは学校教師、医師と警察で
ある。
また、社会建設に貢献したのは技師である。
そもそも台湾は、土匪が支配する社会であったため、土匪の武装勢力を平定して警察が社会治安維持の
主力となって、はじめて台湾に法治社会の基礎を築くことができた。20世紀初頭の人類最大の夢は、夜
警国家の樹立であった。
また、台湾は識字者の少ない地でもあり、日本領台以前に学齢期学童の就学率は2%以下であった。
しかし、日本による近代実学教育によって、台湾人は近代国家の国民として成長することができた。
日本統治時代の台湾における学校数や教育内容は、日本国内のそれと比べても決して遜色ないもので
あった。戦前の台湾には四つの専門学校があり、教師は185名、生徒は841名であった。台北帝大など
は、教師348名、生徒283名であり、学生よりも教師の数が多く、レベルの高い行き届いた教育がなさ
れていたのである。
戦前の日本人、今では「植民地支配者」や「侵略者」と見なされている日本人は、じつに立派で
あった。ことに明治人は新生日本、国民国家の国造りを目指して「お国のため」一筋、進取の精神に
富み、明治人の気骨を持っていた。
しかし、大正デモクラシー以後の大正、昭和、平成時代になると、日本人は変わってきた。だんだん
と勇気を失い、臆病になり、無責任になった。そして戦後の日本人は、とうとういじめるかいじめら
れるか、どちらかの人間のみに堕してしまう。そのため、台湾人は「日本植民地時代を美化している」
といわれるほど戦前の日本人を敬愛しているが、戦後の日本人には台湾で尊敬される人はあまりいない。
戦後の日本人には戦前の日本人を批判する資格はないのである。
歪められ、貶められ続けてきた日本の過去を修正し、先人がいかにすばらしい歴史を築いてきたかを認
識することが、誇りと気概に満ちた日本人となる第一歩である。台湾の近代史、日本と台湾のつながり
を知ることが、その一助となると私は確信している。

黄文雄(コウ ブンユウ)
略歴:
1938年(昭和13年)、台湾、高雄県岡山鎮に生まれ
1964年(昭和39年)来日。
1969年、早稲田大学第一商学部を卒業
1971年、明治大学大学院、政治経済学研究科西洋経済史学修士
現在、評論活動のほかに、拓殖大学日本文化研究所客員教授
鋭い筆法で評論活動を続ける黄文雄氏は、そのダイナミックな歴史観と博覧強記の知識によって
日本では文明論を展開し、台湾では哲学者としても知られている。執筆活動は日本と台湾を2本の
主軸とし、言論活動はアメリカ、ヨーロッパでもなされている。