傳田晴久
1. はじめに
もうすぐ台湾の和平紀念日、2月28日が参ります。私は昨年の228事件記念日の翌日台南から台北松山空港経由で日本に戻りましたが、その直後に台湾政府は、武漢肺炎(COVID-19)防疫のため日本からの渡航者入国を禁止してしまいました。そして早一年経過、台湾に戻れる目途は立っておりません。
何時の日か台湾通信に書かせていただこうと思ってファイルしておいた資料(自由時報の切り抜き)を物色していましたら、その中に李筱峰(リ・シアオフォン)教授のコラムが出てまいりました。そのコラムのタイトルは、「〈李筱峰專欄〉殖民地比較進步嗎?要看誰殖民!」(2015年2月7日)とありましたので、そのタイトルをググりましたら、「台湾を知ろう『怒れる!台湾日本人嫁日記』」というタイトルのブログ(2015年5月9日)が1件のみヒットしました。ああ、この李筱峰教授のコラムに関心を持つ方もいたんだと思い、ブログを拝読いたしましたが、その内容をすこし補足したくなりましたので、今回の台湾通信を作成いたしました。
2. 李筱峰コラムの内容
李筱峰氏は国立台北教育大学台湾文化研究所名誉教授で、台湾史を専門とする歴史家で、政治評論家です。私は台湾に在住している頃、自由時報紙上の自由広場という投稿欄でしばしば教授の評論を拝読しました。
「植民地比較進歩嗎?要看誰殖民!」は、植民地は進歩するか?誰が植民地化したかを見る必要がある!というタイトルで、抄訳すると以下のようになります。
1935年に出版された「台游追記」という本に、著者である中国社会党党首江亢虎が台湾を旅行した時、彼は厦門(アモイ)から船で基隆(キールン)に行ったのであるが、基隆港に上陸した途端、「基隆市の人口は10万にも満たないのに、交通、教育、衛生、慈善、色々な種類の設備など何でもある。厦門と当地の間は一衣帯水、一晩の旅の距離であるが、非常に異なる風景がそこにある」ことに気付いたと記しています。
そして11年後(1945年)、第2次世界大戦の終結後、中国のジャーナリスト江慕雲もまた基隆桟橋に立ち、「この50年が、日本人が経営する50年ではなく、私たちが経営する50年であれば、基隆はまだ近代的な港市になっていないのではないか、母国から来た接収官吏、視察官吏、観光旅行者、そして非常に心悪い金儲け主義者達であれば、台湾が素晴らしく、台湾が豊饒で、建設が良好で、情勢が良く、平和な空気であることなどないでしょう」と賞賛した。
台湾の進歩を称えるこの種の発言は枚挙にいとまがないが、2つ例を挙げれば、一つは上海の雑誌《新中華》の記事で、「『台湾』の一般の人々の文化水準は本土よりもはるかに高く、日本人が私たちに与えた遺産は悪くない」と記されている。
もう一つは、1947年2月12日、天津大公報は社説で「台湾のこのきれいな土地を大切に保護してください」と賞賛し、「恥ずかしいことに、このきれいな土地は、日本の50年間の支配の遺産です。中国の作家蕭乾は、台湾を訪れた後、「中国は近代化の面で少なくとも半世紀遅れている」と述べたということです
(詳細は蕭乾《冷静な目で台湾を見る》天津大公報1946.1.15)
上記の史料はいずれも、柯P(台北市長柯文哲氏)が「植民地はむしろ進歩している」と言ったことが正しいことを証明している。
1人当たりの鉄道旅客輸送量では、1943年の台湾は253キロで、43年後の中国(1986年はわずか240キロ)はそれ以下だった。
1941年、台湾の電話機の台数は人口1000人あたり5台で、42年後(1983年)に中国はこの水準に達しました。学齢期に達した児童の就学率で見ると、台湾は71.3%(山地はさらに高く86.4%)、20年後の中国は初めてこの水準に達した。台湾の1人当たりの平均電力使用量は1943年に181.5度(これは中国の233倍)に達しており、中国は30年後に初めてこの水準に達した。
とは言え、一般に植民地は必然的に進歩するのでしょうか?
必ずしもそうとは限りません。第二次世界大戦後、台湾は日本の植民地化を終わらせましたが、すぐに再植民地化の運命に陥りました。中国が台湾に来て設立した「行政長官公署」は日本の総督府と変わらない。連戦の父親連震東は次のように警告した:この制度は台湾の同胞に、「総督制復活」という錯覚を生じさせた。行政長官が植民地支配の姿勢で再び現れたと思わされた。案の定、台湾人は「新総督府」と呼んだ。いわゆる「新総督府」の支配下では、汚職、特権の横行、経済独占、生産の大幅な減少、米の不足、物価の高騰、失業の急増、軍事規律の崩壊、泥棒の横行、治安の悪化・・・・「すべてのパフォーマンスは、平均的な台湾人に、これは植民地制度の代替であると感じさせる」と、上海の《僑聲報》が指摘した。新しい植民地支配はついに22
8事件を爆発させた!
李筱峰教授は以上のように日本統治下の台湾と中華民国統治下の台湾を比較し、統治者によって統治された(植民地化された)国の発展の比較を行い、最後に、「だから、異なる植民者は、異なる結果をもたらす。しかし、いずれにせよ、志ある国民は「植民統治」を必要としません。私たちは、私たち自身の国を持って、自分自身を管理する必要があります!」と締めくくっておられます。
3. 「台湾日本人嫁」のブログの紹介
李筱峰コラムを引用した「怒れる!台湾日本人嫁日記」というブログの内容を要約すると、次のようになります。「李筱峰教授は日本の『植民地』と書いているが、『植民地』という言葉は戦後生まれの言葉で、『植民地=悪』の価値観が刷り込まれている。日本の台湾統治は同化政策をとり、日本内地と同様かそれ以上の近代化整備が進められました。日本政府がつぎ込む巨額の資金、日本から注ぎ込まれた最新の近代技術と知識、そして台湾本島人の協力があり、当時台湾で暮らしていたすべての『日本人』が一丸となって努力した賜物であり、日本は一方的な搾取などせず、人材を育て、産業を生み出し成長させことも事実。
李筱峰教授は、植民地を支配する支配者によって植民地の発展は異なり、一方(日本)の植民地化は台湾を発展させ、他方(中華民国)の植民地化は暴動を誘発した、しかし、志ある国民にとっては自ら統治する国を持つ必要があると説いているのです。
4. 「植民(地)」とは?
「植民地」という言葉は戦後生まれた言葉でしょうか、フリー百科事典「ウィキペディア」によれば、「植民地(殖民地)とは、国外に移住者が移り住み、当事国政府の支配下にある領土のこと」で、「古代史にはフェニキアや古代ギリシアにも見られる」が一般的には、「16世紀に始まるいわゆる『大航海時代』以降ヨーロッパ各国が侵略によって獲得した海外領土」を呼ぶようです。
代表的な植民地を保有していた国はポルトガル、スペイン、オランダ、イギリス、フランス、ベルギー、アメリカ、ロシアなどで、その統治は過酷で、収奪、搾取は長期にわたったことは周知のことで、「植民地=悪」説の源です。現在多くの独立国がありますが、ほとんどの国は第二次世界大戦後に植民地から独立したものです。
わが日本(大日本帝国)も終戦時、台湾、朝鮮、樺太、満州などを領有、支配していましたが、それが「植民地(=悪)」であるか議論あるところです。
5. おわりに
私は以前、台湾通信No.59「臺灣大觀」(2012年2月6日)にて、1935年当時の台湾の発展ぶりを記述する「臺灣大觀」という本を紹介させていただきましたが、その序文には、「今後十年の後に「真価」が現われる、いうなれば清国の李鴻章をして「瘴癘蠻雨の地」、「化外の民の蟠居する地」と言わしめた台湾を、日本人と台湾人が力を合わせて、本来の意味たる「フォルモサ」、すなわち「美しの島」を目指し努力し、その真の姿は10年後に実現する」と述べているのです。私は、No.59の末尾に、「その10年後、大東亜戦争に敗れた日本は泣く泣く台湾から離れ、丹精込めて育てあげた果実は、あろうことか蒋介石に掠め取られたのです」と記しました。
かつて東西冷戦下、ソ連や中国の核は「きれいな核」だけれどもアメリカの核は「汚い」という言い回しがありましたが、「植民地化」にも良い植民地化と悪い植民地化があるのでしょうか。
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