5月15日発行の本誌第19号で尖閣問題を取り上げたのは、本年3月末に中国の活
動家らが尖閣諸島の魚釣島に上陸して逮捕され、また、4月中旬になって台湾が同
島の土地登記をしていたことが発覚し、尖閣諸島を巡っては今から8年前の平成8
年(1996年)10月の上陸騒ぎ以来の大きな動きとなったことを受けてのことでした。
そこで、第19号では、日本と台湾がどのような論点で尖閣諸島の領有を主張し
ているのか、平成8年当時、産経新聞に掲載された駐日代表を務められた林金茎博
士と、現代中国政治史を専攻される筑波大学名誉教授の徳田教之氏との間で往復2
回にわたって交わされた論争の前半を紹介した次第です。
林金茎博士の結論は、この問題で日台の友好関係を壊すべきではないという前
提の下、尖閣諸島は(台湾を含む広い意味での)中国固有の領土であり、地理的
には台湾に付属するというもので、根拠は、?明朝時代や清朝時代の記録に領土
と出ている。?日本領に編入された際、行政的手続きが不備であり外国へも無通
告だった、というものです。
一方、徳田教授の結論は、尖閣諸島は国際法的に見て正当な日本領とするも
ので、根拠は、?清国領だとする国際法に対応した証拠と典拠を提出していない
、?戦前の長崎駐在中華民国領事の感謝状や戦後の書籍に日本領と認識している
記述が出てくる、?台湾の北限に尖閣諸島が含まれていない、というものです。
今回の論争でも、林金茎博士は日本の無通告問題を取り上げて中国領であった
典拠を示し、徳田教授は日本の無通告は中国の領有権を立証しないし、中国名が
付いていたからといって中国領である証拠にはならないとし、尖閣諸島を巡る領
土問題はサンフランシスコ平和条約で終っている、とするものです。
では、掲載時のまま紹介しますが、林金茎博士の指摘されるように、日台間の
友情関係があればこそ、徳田教授の述べられるように「関連する過去の事実の正
確な確認はすべての出発点」となり、実際、台湾では歴史の見直しがはじまり、
総統府はじめ日本時代の家屋や駅舎が次々と古蹟指定されていますので、この尖
閣問題が日台間の摩擦ではなく、共栄に向けた実りある通過点となることを期待
したいものです。
なお、本文の漢数字は算用数字に変えてあります。 (編集部)
(3) 台湾の林前駐日代表
【平成8年10月1日付「産経新聞」】
■日本編入は秘密裏に
釣魚台(尖閣諸島)問題に関する筆者のインタビュー記事について、徳田教之筑
波大学名誉教授から反論が提起されたので、この小論を発表して読者の関心にこ
たえたい。この問題は、世界各地での「保釣(尖閣防衛)運動」となり、長く激
しい運動が展開されている。日台双方の自制によって、関係が悪化しないよう
祈る。また、日本が(同諸島を)沖縄県に編入した経過を紹介するのにとどめ、
徳田教授の反論に対する反論ではないことを強調したい。
日本が「無人の土地を先に占拠した」(いわゆる無主地先占)として、釣魚台
を領土に編入したいきさつは、日本外務省の「日本外交文書」第18巻に詳しく述
べられている。
まず、明治18年(1885年)9月22日、西村捨三沖縄県令(知事)が山県有朋内務
卿(内相)にあてた照会の文書(第315伺書)をみてみよう。
このなかで西村県令は、釣魚台がすでに琉球王を任命するため清国から送られ
る特使のルートとしてよく知られていることを挙げている。さらに、清国側が同
諸島の島に名前をつけて沖縄航路の目標としていることにも触れ、日本が同諸島
に国境標識をたてて大丈夫かと疑問を伝えている。
これに対し、内務、外務両相は、この年11月30日の回答で「伺いの件、現段階
で( 国境標識を)建設してはいけない」(口語訳)と述べている。
まず両相は、これらの島々が清国との国境に近く、清国側が島名をつけている
ことを確認している。さらに、清国の新聞が台湾に近い清国領の島々の占拠を日
本がねらっていると書き、これによって清国政府の注意を促していることでも懸
念を示している。
そして、国境標識の設置は清国の疑惑を招くことになるとはっきり述べている
のだ。同じく照会のあった釣魚台への実地調査に関しても、官報や新聞に発表し
てはいけないとまで念を入れている。
それより約10年たった明治28年(1895年)1月14日、伊藤博文内閣は閣議で釣魚
台を沖縄県の所属として、国境標識をたてることを認めたのだ。
現実はどうだろう。日本が編入する2年前、慈禧太后(西太后)は清国民、盛宣
懐に釣魚台を下賜して、ここから採れた薬草で病気が治ったことを感謝している。
釣魚台の日本編入を決めた伊藤内閣の閣議決定は、秘密処理とされた。つまり
、勅令、官報、公示、新聞への掲載がなかったのだ。これでは清国はじめ、外国
人は領有の事実を知る由もないだろう。
こうして日本は釣魚台を編入したわけだが、当時、土地を先に占拠すること(
先占)について定めた1885年の「ベルリン一般議定書」第34、35条は、「先占」
が有効と認められるために、他国への通報を要件としている。
釣魚台編入の前、明治24年(1891年)に日本政府が硫黄島を小笠原諸島に編入
したさいには、閣議を経て、官報(同年9月9日付勅令第190号)に掲載するという
議定書に沿った手続きがとられた。
小笠原諸島の領有自体でも、明治9年(1876年)10月、日本政府は各国公使に通
告している。しかし、釣魚台の編入は極秘裏に行われたのだ。
筆者は早稲田大学博士課程で一又正雄、入江啓四郎、田岡良一各教授の講義を
受けたが、田岡教授は「先占の対象が無人島または不毛の地である場合には、先
占の意志が諸外国に通告され、抗議が生じないのを確かめておくことが、後日の
紛争を避けるため重要である」と教えている。
仮に、昔から中国各朝の文献に記述されていた釣魚島列島を日本が「先占」し
ようとしたのなら、なにをおいても清国に対してなされるはずの通告がなかった
のは、一体どう理解すべきなのだろうか。最後に、釣魚台が(広い意味での)中
国固有の領土であることの根拠を1、2紹介しておきたい。
明朝の「使琉球録」(陳侃)には、琉球王国の支配域が釣魚台に及んでいない
ことがしるされている。さらに清朝初期の「日本一鑑」(鄭舜功)では、「釣魚嶼
、小東小嶼也」(釣魚台は台湾の小島である)とある。井上清氏らの学者も、釣
魚台は日清戦争で台湾すら日本割譲せざるを得ない時に沖縄県に編入されたとい
う中国側の主張には一理ある、と論じている。
なお、台湾に所属する釣魚台について日本の措置とか、長崎領事の感謝状と
かは、台湾が日本の領有時代のことであり、取り上げるほどのものではないだ
ろう。 (寄稿)
(4) 徳田教之・平成国際大学教授(筑波大名誉教授)
【平成8年10月8日付「産経新聞」】
■台湾「検証なく領土権主張」
尖閣諸島紛争はいずれかの国が現状を変更しようとしない限り、実際に火を噴
くことはないと一般的にはみられている。しかしそういう危ない事態が、平和解
決の期待に反して、将来いつの日にか起こりうることを全く否定することもでき
ない。とにかく、問題の解決に近づくためには、対話による相互の立場の正確な
理解が必要である。合意は至難であるとしても、関連する過去の事実の正確な確
認はすべての出発点である。
率直にいって、中国、台湾では日本側の主な論調とかはこれまでほとんど知ら
されていないし、日本の事情への無知にもとづく暴論のたぐいも多い。この点で
は日本側は対照的で、25年前に既に翻訳されたものも多い。対話が必要という観
点からいうと、本紙(10月1日付)での林金茎・前駐日代表の再論は歓迎すべき
だが、中国人側からの議論の一方通行はなんとかならないのであろうか。
まずは筆者も、林博士に反論するということではなく、それに触発されて、中
国語の「実事求是」( 実際の事柄に即して真実を求める)の精神で、問題点の一部
を再度ここで整理してみたい。
明治28年1月14日に尖閣諸島は閣議決定によって日本領に編入された。この際の
行政的手続きの不備と外国への無通告について、台湾の論客たちが指弾してきた
ことはよく知られている。しかし結論的にいって、これについては若干の議論の
余地があるとしても、このために国際法的に見て日本の領有権が否定されるもの
ではないし、まして中国の領有権が立証されるわけでもない。むしろ問題なのは
、台湾側の立論が、「中国の領土だった」という検証なしの信念から生まれる予
断に基づいて、推論を重ねていること。また「日本外交文書」第18巻の関係部分
を綿密公平に読んでいないことの方である。
日本が清国の領土の侵食を企てていたという固定観念に立てば、明治18年9、
10月の井上馨、西村捨三の清国との関係に配慮する慎重姿勢は、帰属の認識が未
成熟であったことを示すのではなくて、逆に尖閣諸島が清国領であったとのあか
しに見えてくる。またあらゆる行政的不備は秘密主義と陰謀にも見えてくる。し
かし、同じ十月の山県有朋から井上馨への上申書案のなかにある、尖間諸島は中
国の「中山伝信録」(1719年)に書かれている島のようだが、航路指標になって
いただけで、「別に清国所属の証跡は少しも相見え申さず」という下りは無視さ
れている。
明、清国の琉球国への冊封使節が航路をよく知り、島嶼(しょ)の名前まで付け
ていることについては、尾崎重義教授の最近の研究の中で詳しく検討されている
。これは琉球史研究の成果とも関連する。要するに、琉球と福建との間の航路は
琉球人が熟知していたもので、中国からの冊封船は往復の航路で琉球船の水先案
内を受けた。島の名前も琉球人から聞いて、中国語におきかえて記録に残したも
のである。それを示す面白い例が「中山伝信禄」に出てくる「姑巴甚麻山(クー
バシエンマ山)」である。
つまり琉球名の久場島、中国名の黄尾嶼である。久米赤島は赤尾嶼である。中
国名の島だからといって自国の領土だとは限らない。
清朝末期の西太后が薬草業者の盛宣懐に魚釣島など三島を与えたとされる「
証書」については、日本の国際法学者はその書式、形式、薬草(海芙蓉)の産地
の違いなど幾つかの疑問点を挙げて、信ぴょう性ををうたがってきたし、この文
書は国際法的にも無意味であるとみている。中国の政府もこれを取り上げてはい
ない。
台湾側が挙げる尖閣諸島を中国固有の領土だとする根拠の文書は、清代嘉靖末
に鄭舜功が私人として著した「日本一鑑」の中にある短い言葉「釣魚嶼は台湾の
小嶼なり」などあまり多くはないが、日本の学者たちはこれらをあいまいな表現
だし、当時の一般的常識であったとはいえないとみる。
最後に一言付け加えれば、中国との領土問題はサンフランシスコ平和条約(195
2年発行)で終結したと解するべきである。この条約第三条で日本は琉球諸島を放
棄していないし、日華平和条約(1952年4月調印)第2条では、サンフランシスコ
平和条約の第2条の台湾などの放棄の条項が承認されている。ここでは琉球諸島へ
の言及は全くなかった。中国、台湾側は「台湾の付属島嶼」だというけれども、
尖閣諸島が下関条約(1895年)で決めた割譲範囲に含まれていると明言したこと
はない。したがってこの問題で平和条約以前のカイロ宣言(1943年)やポツダム
宣言(1945年)を持ち出しても、国際法的根拠にはならない。 (寄稿)
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