「正論」での周英明氏追悼文 [日刊「房日新聞」 古市 一雄]

先般1月14日に催した「伊藤潔先生を偲ぶ会」の折、許世楷・駐日台湾大使をはじめ20名
の有縁の方々からお言葉をいただき、その中に、伊藤潔先生と台湾独立建国運動の盟友だ
った周英明先生のことに触れられた方が何人かいらっしゃいました。

 周英明先生が昨年11月9日に亡くなられた折、本誌でも盟友の宗像隆幸氏はじめ多くの方
々からの追悼文を掲載し哀悼の意を表しましたが、月刊「正論」2月号において、昨年11月
1日付で前任の大島信三氏の後を襲って編集長に就任した上島嘉郎氏が「追悼 周英明博士
 日本を愛し、台湾を信じた至誠の生涯」と題して追悼文を掲載しています。葬儀に参列
しての感懐や、周英明先生が40年ぶりに台湾に帰られたときに同行取材した際の印象など
をつづった内容です。

 この上島編集長の追悼文に触発されて、千葉県の南房総全域をカバーする(房州日日新
聞社、千葉県館山市)1面の「展望台」と題した社説に「『正論』での周英明氏追悼文」
という一文が掲載されました。

 この日刊「房日新聞」が社説で周英明先生の追悼文を掲載したことは、昨年11月24日付
の本誌でも転載して紹介しましたが、今回も執筆は古市一雄氏。本会理事で台湾研究フォ
ーラム事務局長をつとめる古市利雄氏のご尊父です。

 1月14日付の「展望台」に掲載された記事をここに転載して紹介するとともに、改めてそ
のご略歴を掲げ周英明先生の御霊に哀悼の誠を捧げます。
                     (メルマガ「日台共栄」編集長 柚原正敬)


「正論」での周英明氏追悼文

                                   古市 一雄

【1月14日付 日刊「房日新聞」 社説「展望台」】

 本欄で紹介した周英明氏について、雑誌「正論」の2月号で「日本を愛し、台湾を信じ
た至誠の生涯」と題して、4ページにわたり、編集長の上島嘉郎氏による文章が掲載され
ている。

 周氏については、昨年11月に本欄で紹介したところ、その直後から関係各方面から大変
な反響をいただいた。館山市のある方からは、日台共栄にかける夢のほかに、歩いてきた
人生の道程は、若い人たちへのメッセージとも思え、これが現代教育の歪みやいじめ問題
解決の参考にもなり共感を覚えたという意見を頂いた。また、日本李登輝友の会は、国内
外の会員向けにメールマガジンをほぼ毎日配信しているが、展望台の記事をインターネッ
トで紹介し反響を呼んだという。

 雑誌「正論」は、普段愛読しているわけではないが、正月休みに立ち寄った書店で偶然
見かけたもの。これも何か奇遇とも思え再び取り上げたところである。

 戦争という狭間の中で、また日本が統治した台湾という地域、その後の国民党一党独裁
による恐怖政治の時代。そんな中、周氏は台湾の民主化に向かって立ち上がり、日本で大
半を過ごした人生でもあった。

 台湾人でありながら、日本に生まれ、日本人名を「ひであき」として育った。終戦後台
湾にもどり、しかし、勉強のために肉親のもとを離れて再び、苦学して東京大学へ進む。
そして、再度祖国の土を踏んだのは、40年後の陳水稲総統となった2000年8月のことだっ
た。

 日台関係に没頭する息子の影響で、少なからず歴史観には触れていたが、香典などは、
台湾の後進に役立ててほしいとして、台湾独立建国連盟に寄贈した。上島氏の追悼文は、
「日本を愛し、台湾を信じた先生の志が息づいていくことを祈りたい」と結んでいる。

 人間は、生まれてから死ぬまで、それぞれに人生があり、その過程は異なっている。そ
して、死して初めてその偉大さがわかることも少なくない。夫人でやはり民主化に関わっ
た「金美齢先生の動に比較して静の周英明先生」と呼ばれていたが、このことが初めてわ
かったような気がしてならない。

 日本と台湾の間に生きてこられた、周氏の人生は特に、日本の若者たちに対するメッセ
ージではないかとも思う。そして、これを感じることができれば、今日のいじめ、不登校
などの問題、国を思う心と力を醸成することができ、教育問題の大半は解決の方向に向か
うのではないかと思う。


■周英明(しゅう えいめい)先生
 1933年(昭和8年)、福岡県八幡市に生まれる。1946年(同21年)、台湾に帰国。1956
 年(同31年)、台湾大学電気工学科卒、「歯を食いしばって兵役(空軍少尉)を終え」、
 1957年、台湾大学助手。1961年(同36年)、「激烈な競争を勝ち抜き」27歳にて日本文
 部省国費留学生として東京大学大学院修士課程に留学。同時に台湾独立運動に従事。1964
 年、早稲田大学留学中の金美齢氏と結婚。1968年、東京大学大学院博士課程修了(工学
 博士、マイクロ波工学専攻)。1975年、台湾独立建国連盟日本本部委員長。月刊「台湾
 青年」発行人(孫明海)。東京理科大学講師、助教授、教授を経て、1996年、理工学研
 究科長、社団法人回路実装学会会長。2000年8月28日、40年ぶりに祖国・台湾の土を踏む。
 2006年11月9日、大腸癌のため日本国にて逝去。