「伊藤潔先生を偲ぶ会」が厳粛かつ盛大に開催

去る1月14日(日)、かねてから案内の「伊藤潔先生を偲ぶ会」が東京・千代田区内のア
ルカディア市ヶ谷にて約100名が参列し、厳粛かつ盛大に執り行われました。

 すでにその模様の一部は、本会理事の宮崎正弘氏が翌日付の「宮崎正弘の国際ニュース
・早読み」でご自分と伊藤潔先生の交友を紹介されつつ報告され、それがメールマガジン
「台湾の声」にも転載されていますので、以下にご紹介します。

 また、李登輝前総統からは逝去された日に弔辞をいただいており、林建良氏の代読によ
って紹介されましたので、併せて掲載します。

 当日は、昨年1月16日に入院先の杏林大学病院において心不全で亡くなられた伊藤潔先生
を偲ぶための会でありましたが、その一ヶ月も経たない2月3日、父の死亡に伴う事務手続
きで出掛けていたご次男の伊藤尚高(いとう なおたか)氏が交通事故死したこともあり、
会場正面に伊藤潔先生とご次男の遺影を掲げ、静(しず)夫人やご長男で外科医の尚真(
なおと)氏ご夫妻などご親族も参列してしめやかに行われました。遠く青森や愛知、ある
いは台湾やカナダからも参列し、故人のお人柄が偲ばれました。

 定刻の午後2時、柚原正敬・日本李登輝友の会事務局長の司会により、呼掛け人代表の何
康夫・在日台湾同郷会会長の「開会の辞」に始まり、台湾から駆けつけられた黄昭堂・台
湾独立建国聯盟主席による「閉会の辞」まで約3時間にわたり、以下の20名の有縁の方々か
らお言葉をいただいた。プログラムとともにご紹介します。

・開会の辞  何 康夫(在日台湾同郷会会長、呼掛け人代表)
・挨  拶  許 世楷(台北駐日経済文化代表処代表)
・挨  拶  黄 文雄(台湾独立建国聯盟日本本部委員長)
・挨  拶  伊藤 隆(東京大学名誉教授)
・弔  辞  李 登輝(前台湾総統) 代読 林 建良(メルマガ台湾の声編集長)

・参列者献花

・伊藤潔先生の思い出を語る

 田久保忠衛(杏林大学客員教授)
 平松 茂雄(中国軍事問題研究者)
 白川 浩司(文藝春秋常任監査役)
 朱  文清(台北駐日経済文化代表処広報部長)
 西尾 幹二(電気通信大学名誉教授)
 宗像 隆幸(アジア安保フォーラム幹事)、
 連  根藤(台生報編集長)、田代明裕(前在日台湾同郷会会長)、
 林  建良(世界台湾同郷会副会長)、
 小田村四郎(日本李登輝友の会会長)
 林  瑞麟(台湾団結聯盟カナダ支部長)
 丘  哲治(日本台湾医師連合会長)
 中里 憲文(怡友会前会長)
 永山 英樹(台湾研究フォーラム会長)

・ご遺族挨拶 伊藤尚真
・閉会の辞  黄 昭堂(台湾独立建国聯盟主席)

 東大時代の指導教官だった恩師の伊藤隆氏が「伊藤潔と言われてもピンと来ない。私にと
っては劉明修君だ。劉君のファイルが2冊あり、夕べはそれを見ていた」と切り出し、東大
国史学科を受験して落ちたものの、日本語力による問題だろうとして自分のゼミに入れら
れた話や、万が一の連絡先を預けて台湾に日本統治時代の研究に行った話など、深い絆に
結ばれた子弟関係の一端を披露していただいたのが印象的でした。

 また、40年以上の付き合いになるという黄昭堂主席は、頑固で真面目なその人柄につい
て「どうしようもない。お手上げだった」「皆さん長電話でまいった話をされましたが、
僕は被害を受けていない。5分で切るから」と笑わせつつも、それだけににじみ出てくるよ
うな愛情が感じられ、まさに偲ぶ会を締めくくるにふさわしいご挨拶でした。

 会場には、許世楷駐日台湾大使夫人で児童文学者の盧千枝さんや宮崎正弘氏、ジャーナ
リストの平野久美子さん、自由時報東京特派員の張茂森氏など、まだまだお話しいただき
たい方はたくさんいらっしゃいましたが、時間の都合で割愛せざるを得ませんでした。

 長丁場だった偲ぶ会が終ると、呼掛け人を中心に会場近くで懇親会が開かれ、伊藤潔先
生の東大時代の恩師である近現代史の泰斗、伊藤隆・東大名誉教授など約30名が参加、伊
藤潔先生のお人柄を改めて偲ぶとともに、台湾の現況について掘り下げた意見交換が行わ
れるなど有意義なひと時となりました。

 では、伊藤潔先生のプロフィールを紹介するとともに、「宮崎正弘の国際ニュース・早
読み」をご紹介します。                        (編集部)


伊藤潔先生(台湾名:劉明修)

 1937年(昭和12年)、台湾・宜蘭県に生まれる。台湾・中興大学卒業後、64年(同39年)
に来日し69年(同44年)に早稲田大学卒業。この間、台湾独立建国聯盟日本本部に秘密盟
員として参加。東京大学大学院博士課程修了、80年(同55年)に文学博士号を取得(博士
論文は「台湾統治と阿片問題」)。専攻は東アジア政治史、同地域研究。82年(同57年)、
日本国籍を取得。津田塾大学、横浜国立大学、東京大学、二松学舎大学で教鞭を執られた
後、95年(平成7年)に杏林大学社会科学部(現総合政策学部)教授に就任。杏林大学病院
に入院中の2006年(同18年)1月16日、心不全により逝去。享年68歳。在日台湾同郷会顧問、
日本李登輝友の会理事。
 主な著書に『台湾統治と阿片問題』(山川出版社、1983年)『これが中国の政治システ
ムだ!』(JICC出版局、1990年)『香港クライシス!』(JICC出版局、1991年)『台湾−四
百年の歴史と展望』(中公新書、1993年)『李登輝伝』(文藝春秋、1996年)『香港ジレ
ンマ』(中央公論社、1997年)など。訳編に『!)小平伝』(中公新書、1988年)、共著に
『「大中国」はどうなる』「李登輝の台湾は『独立』するか?」(文藝春秋、1996年)など。


【1月15日付 宮崎正弘の国際ニュース・早読み】

 「伊藤潔先生を偲ぶ会」が昨日(1月14日)私学会館で静粛厳粛かつ盛大に開催されました。

 会はまず「開会の辞」を何康夫氏(在日台湾同郷会会長、呼掛け人代表)、挨拶は許世
楷氏(台北駐日経済文化代表処代表)、黄文雄氏(台湾独立建国聯盟日本本部委員長)、
伊藤隆氏(東京大学名誉教授)らと続いた。

 許世楷大使は「伊藤さんほど日本語のうまい台湾からの留学生は稀だった。おなじ学問
が対象だったが、下宿先が近かったのでよく議論し、勉強した」

 黄文雄氏は「経済的に困窮していたとき、夜中まで伊藤さんの家で議論したりしながら
、お世話になった。家族ぐるみの付き合いだった。個性の強い人で他人とはよく喧嘩した
のに、わたしとは40年の付き合いで一度も喧嘩したことがない。日本は『美しい国へ』を
標語としているが、伊藤さんは『美しい心をもった台湾』を目指していたに違いない」

 伊藤隆氏は東大時代の伊藤潔氏の主任教官でもある。
 「あるときは在留許可延長の交渉に入管事務所まで行った。難航していた手続きも『東
大教授がここまで来たのは初めて』と言って許可してくれた。学生時代から病気がちで、
病と闘いながら博士論文を書き、多くの著作に挑んだ。日本に帰化するときに「伊藤」と
したのは、私の名前という説もあるが、本人は『あれは伊藤博文からとった』と言ってい
た」

 ついで「弔辞」が李登輝・前台湾総統から特別に寄せられたものを林建良氏が代読した。
引き続き参列者全員の白菊による献花が行われた。

 小生は会場の片隅で追悼の挨拶を聞きながら、伊藤潔さんとの交遊した多くの場面を走
馬燈のように回想していた。台湾関係のシンポジウムや講演会場でよく会った。

 台湾でばったり会ったときは、小生は途中で退席したが、一緒に行っていた故平林孝さ
ん(当時中央公論編集長)と夜明けまで飲み明かした。

 小生が最後に伊藤潔さんと会ったのは故人となる一年ほど前で、或る会合のかえりに市
ヶ谷の居酒屋で、二人だけで飲んで台湾の未来を語らった。

 追悼会は引き続き第二部に入り、まず田久保忠衛氏。「当時、中央公論の名編集長だっ
た平林孝さんから紹介され、夜中によく長電話をしたが、陳水扁当選の夜、『生きていて
良かった』と感嘆したのを忘れられない。帰化したあとは日台間の重要なパイプ役として
黒子に徹した人物だった」

 平松茂雄氏。「台湾独立を目指して戦い続けた人だった。96年ミサイル危機のとき、『
もし、中国が攻めてきたら、自分は老兵として、日本国籍を捨てて戦いに参ずる』と言っ
た、あの台詞が鮮明に残っている」

 白川浩司氏。「『諸君!』編集長時代からの付き合いだが、当時の中国学者は奥歯に三
枚ものがはさまった中国論を書いていて意味不明だった。伊藤さんは、こういう環境の中
で明瞭でストレートな物言いだった」

 ここで小生は次の約束のため退席。

 以下、つぎの人々の追悼挨拶が予定されていた。また会場には小田村四郎(前拓殖大学
総長)、西尾幹二氏ほか多くのジャーナリストらの顔があった。プログラムに依れば、ス
ピーチは宗像隆幸氏(アジア安保フォーラム幹事)、林建良氏(世界台湾同郷会副会長)
らが続き、最後に遺族挨拶は伊藤尚真氏、閉会の辞は台湾から駆けつけてきた黄昭堂氏(
台湾独立建国聯盟主席)。全体の司会は柚原正敬氏(日本李登輝友の会事務局長)がつと
めた。