いて投稿していただきましたのでご紹介します。 (編集部)
戦前の台湾の地質学研究史−地質研究者伝(5) 鹿野忠雄(1906-1945?)
地質学研究者 長田 敏明
■はじめに
台湾の3分の2を占めていた「蕃地」の実体は、日本領台後に渡った日本人博物学者の
命がけの調査によって初めて明らかにされた。その中で日本が台湾を領有した後に、台
湾奥地の研究者として、博物学者の中で最も知られているのが鹿野忠雄である。鹿野は
いわゆる地学者とは少し異なるが、台湾の自然について領台初期に、蕃地を調査し貴重
な情報をもたらした人物として重要なのでここに記載する。
この項は、山崎柄根『鹿野忠雄−台湾に魅せられたナチュラリスト』(1992)や黄文
雄『命がけの夢に生きた日本人』(2006)を参考にまとめた。民族学研究開発センター
の野林厚志(2003年6月号)著の月刊「みんぱく」に掲載された年譜に基づいて述べる。
(1)生い立ちと経歴
その生涯を台湾の博物学研究にささげた鹿野忠雄は、東京市淀橋区柏木(現東京都新
宿区柏木)で生まれた。少年時代から昆虫採集に熱中し、昆虫の宝庫であった台湾行き
を切望するようになる。鹿野は、大正13(1924)年に共立中学校(現開成学園)を卒業
した。大正14(1925)年に台北高等学校が開設されると聞き、この学校の受験のために、
一浪してわざわざこの台北高等学校に入学している。鹿野は、台北高等学校では、昆虫
学者の江崎悌三(1899〜1957)の書いた『台湾紀行』及び『台湾採集旅行記』などを読
んで、台湾の博物学的研究に一生をささげたいと思うようになった。
そのため、鹿野は台北高等学校の授業にはほとんど出席せず、魑魅魍魎の跳梁跋扈す
る台湾の山野を駆けめぐった。鹿野の興味は、昆虫類の採集から脱却し、その研究範囲
は、鳥類・爬虫類・両生類をはじめとして、哺乳類・魚類などから、台湾の全生物相へ、
さらに原住民の生活習慣や文化などにも及んだ。
旧制高等学校の学生であった鹿野は、既に博物学者・民族学者として頭角を現してい
た。昭和3(1928)年4月に、東京帝国大学理学部地理学科に入学している。同学科を昭
和6(1931)年3月に鹿野は卒業している。鹿野は大学を卒業するとすぐ、昭和7(1932)
年に氷河の痕跡を求めて台湾中央山脈に深く入り込んで調査した。
鹿野は、昭和8(1933)年にアミ族の青年トタイ・ブテンに出会い研究のための最適な
助手を得た。このトタイは、花蓮東大寺へ入門し、京都の花園中学校で学んだので日本
語は達者であった。
戦争中に鹿野は軍部の要請に基づいてフィリッピンの調査に向かった。当時、原住民
に拉致されていたアメリカ人学者を解放して文化財を保護したりした。さらに、鹿野は、
昭和20(1945)年、39歳の時に後輩の金子総平と伴に北ボルネオのキナバタンガン川の
調査に赴き、昭和20(1945)年7月15日にタンブンを立ち、サボンへ行く途中で、消息を
断ちそれっきりである。
田中敦夫(2001)によれば、鹿野が消息を絶った理由は2つあるという。それは「すで
に、日本軍に反旗を翻すゲリラが各地に出没しており、彼らに襲われた可能性が高いと
いえる」ということである。しかし、田中(2001)によれば、もう一つの説もある。それ
は「憲兵に殺されたというものである」。この説は、ヨーロッパの研究者の間に流布し
ている説である。当時、北ボルネオに捕虜として抑留されていたり、戦後進駐した英国
軍人などが得た情報として伝わったようである。混乱している現地では、召集されてい
るとはいえ、民間人にあらぬ容疑をかけて連行し、暴行死させることは、当時の憲兵の
状況から十分にありえることであった。折しも、当時、彼らが立ち寄ったケニンガウの
町は空襲で焼け落ち、憲兵は殺気だっていたようである(田中敦夫:2001)。
(2)鹿野忠雄の業績
鹿野の業績のうち広い意味で地学に関するものは、地理学評論に掲載された以下の各
論文である。鹿野の興味は地形・氷河・民族と多方面に及んでいる。
1、1932年:台湾高山地域に於ける二三の地形学的特徴。
2、1934年:台湾次高山群に於ける氷河地形研究(第1報)。
3、1936年:紅頭嶼生物地理に関する諸問題。
4、1936年:台湾原住民族の人口密度分布並に高度分布。
5、1936年:山と雲と蕃人と−台湾山岳紀行−。文遊社、2002年(復刻版)。
また、他の分野では、以下に記すように高等学校時代に既に新ウオーレス線という生
物地理区の境界線が台湾島と紅頭嶼(現、蘭嶼)の間にあることについて論じている。
やがて、鹿野は台湾の東側にある蘭嶼という小さな島で調査をはじめる。
当時、紅頭嶼とよばれていたこの島には、東南アジアと中国大陸側との動物相の関係
を考える上で重要な鍵となる昆虫が生息していたためである。鹿野が発見したいくつか
の昆虫の学名には Pachyrrhynchus insularis Kano(コウトウカタゾウムシ)のように
鹿野の名前が発見者として記載されている。そして鹿野の調査によって、台湾とフィリ
ピンとの間に引かれていた動物相の境界は、改めて台湾島と紅頭嶼とのあいだで引きな
おされ、新ウオーレス線と呼ばれ、国際的にもその業績は高く評価された。その後は、
軍の要請で占領地の民族調査などをやっていた。
1、1927年:ウォーレス線と紅頭嶼。台北高等学校交友会雑誌、14-23。
2、1935年:台湾山地に生息するサクラマスと其の古地理学的意義。日本学術協会報告、
10、4。
3、1940年:Zoogeographical Studies of Tsugitaka Mountain of Formosa。Shibusawa
Inst。Ethnogr。 Res。、 1-145。
また、鹿野は、台北高校をようやく卒業後、東京帝国大学理学部に進学するが、選ん
だのは地理学科であった。これは、彼の興味が昆虫や動植物だけではなかったことを示
している。生物地理に興味があり、そのために、地理学科を選択したのであろう。
東京帝国大学を卒業すると同大学院に進学する。大学院生のまま、台湾総督府の嘱託
職員となり、台湾の山々に分け入る過程で、氷河地形の存在を確認する。これは、地理
学評論に発表され、過去の氷河が台湾まで覆っていたことを示す世界的発見であった。
当時、日本の地形学界は、氷河論争で持ちきりであった。
そして、鹿野が次に派遣されたのが、北ボルネオであった。こちらも占領地の文化的
調査が中心であった。その時期は、昭和19年で戦況は悪化しており、赴くだけでもたい
へんだったようである。それでも、すぐさま後輩の金子総平らとともに、北ボルネオの
少数民族の調査に従事した。同時期、同じ北ボルネオのキナバタンガン川上流に入った
日本人に従軍記者・里村欣三がいるが、鹿野も同じく熱帯のジャングルを歩き回り、各
民族について調べた。
ちなみに、この調査の目的は、軍にとって西海岸と東海岸をつなぐ要路の確保と、敵
が上陸した際のジャングル戦に備える意味があったのであろう。様々な探検活動が行わ
れていた。戦争という異常な時期に、日本の探検家は、大きな舞台を与えられた。
■あとがき
鹿野忠雄は、不可解な死に方をしているが、享年はわずか39歳であった。当時の日本
の常識には囚われなかった鹿野の死に方かも知れない。鹿野が戦争を乗り越え戦後に生
きていたならば、日本の民族学研究は、新しい展開があったかも知れないと思うと、あ
のような形で鹿野を失ったことは残念でたまらないと思うのは筆者だけでろうか。
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