から7年の歳月をかけ、日本統治時代の台湾で青少年期を過ごした5人の台湾人を取材した
ドキュメンタリー映画で、監督初作品です。
いまでも茶摘みに精を出す楊足妹さん(1928年生)、立法委員を15年務めたパイワン族
出身のタリグ・プジャズヤンさん(1928年生)、男だったら特攻隊に志願したと言い切る
陳清香さん(1926年生)、総統府と二二八紀念館でボランティア解説員を務めている蕭錦
文さん(1926年生)、千葉県にある恩師の日本人教師の墓参りを毎年欠かさない台湾少年
工出身の宋定國さん(1925年生)。
この5人の中の宋定國さんと昵懇のお付き合いをされているのが、台湾少年工との交流
を続けている高座日台交流の会事務局長をつとめる、本会理事で神奈川県支部長の石川公
弘(いしかわ・きみひろ)さんです。映画「台湾人生」に登場するきっかけとなったのは、
石川さんが中学校の同窓会誌に寄稿した一文でした。
それがNHKラジオのディレクターの目にとまり、石川さんが「ラジオ深夜便」に出演
して宋定國さんと恩師の物語を話したことが大きな感動を起こしました。またNHK発行
の冊子にも収録されるに至って多くの方の目に触れることになり、宋定國さんのことが広
く知れ渡るようになりました。
石川さんは平成17年(2005年)6月からブログ「台湾春秋」を始め、その9月20日から同
窓会誌に寄稿した「台湾で今も敬愛されている日本人教師」を連載しています。この一文
を読めば、台湾と日本の深い結びつきがよく分かり、映画「台湾人生」をさらによく理解
できます。
ここに、石川さんのご了承をいただき、ブログから転載してご紹介いたします。ブログ
では6回にわたっての連載ですが、本誌では3回に分けてご紹介します。 (編集部)
■石川公弘氏ブログ「台湾春秋」
http://blogs.yahoo.co.jp/kim123hiro/archive/2005/9?m=l
台湾で今も敬愛されている日本人教師(最終回)
石川台湾問題研究所代表 石川 公弘
■変わり果てた故郷台湾
連隊の解散によって、宋さんは高座海軍工廠の寄宿舎に帰った。敗戦を機に全国に派遣
されていた台湾少年工の仲間も、すべて帰ってきた。頼みの海軍は解体され、今は異郷と
化した地に面倒を見てくれる者はいない。前途は不安に満ちていた。一部の少年は自暴自
棄になり、すでに新聞種にもなってもいた。
しかし、そのことに問題意識を持った宋さんたち中学校卒業者は、台湾省民自治会とい
う自治組織を結成し、自らの力で神奈川県や外務省と食糧の調達から帰還船の準備まで交
渉することにした。宋さんも甲府63連隊の実例をあげ、「飛ぶ鳥は跡を濁さず」と規律の
回復を説いて回った。虚脱と不安を抱えた8000余名の少年を、混乱の淵から見事に結束さ
せた、20歳を最年長とする当時のリーダーの奮闘ぶりは、いまも語り草である。
宋さんの属する台湾省民自治会台北州大隊を乗せた病院船「氷川丸」は、昭和21年1月
29日、浦賀港から出航した。不幸にも船中で天然痘が発生したため、九州の唐津港で1週
間停泊して状況を見、2月10日に基隆に着いたが、検疫のため更に9日間港内へ入ることが
許されなかった。その船内には、後に「台湾建国の父」と仰がれる李登輝さんも乗船して
いた。司馬遼太郎の『台湾紀行』には、このとき台湾少年工が船内で暴れたように書かれ
ているが、事実は全く異なるという。
ようやく上陸許可が下りたのは、2月19日であった。船が基隆港に入り、岸壁に近づい
た瞬間、だれもが呆然となった。基隆港で見た3年ぶりの故郷が、想像もできない姿に変
わっていたからである。銃の両端に破れ傘と鍋を吊るした、みすぼらしい身なりの中国兵
がいた。規律は最低だった。
敗戦と同時に、祖国と信じていた日本に放り出された少年たちは、今まで敵としてきた
「中華民国」に、将来への夢を託していた。しかし、基隆港の警備をしているだらしない
身なりの中国兵は、その夢を一瞬のうちに打ち砕いた。
宋さんは、中国人になったことを得意にしていた仲間の1人をつかまえ、「おいX、こ
れがお前たちの何時も威張っている中華民国の兵隊だ、よく見ておけよ」と言った。彼ら
は立ち竦んでいたが、しばらくして、「あれは兵隊ではない、きっと何かの雑役だ」と絞
り出すように答えた。
当時の中華民国の軍隊は、自給自足が建て前なので、各人が鍋釜を担いでいた。その日
の糧秣を調達するため、商店から代金を払わずに品物を持ち去るなど、当たり前のことだ
った。
当時の中国軍の事情は、朝日新聞の論説委員(その後、衆議院議員)だった神田正雄氏
の『謎の隣邦』(海外社、昭和3年刊)に、極めて客観的に書かれている。それを読むと、
台湾人が戦後に直面した驚きと困惑の謎が解ける。
「支那の軍隊は、鉄砲を担いでいるから兵隊であるが、実は無職の無頼漢である。勝てば
略奪して進むし、負けるとまた略奪して逃げる。彼らにとって勝敗はものの数ではない。
広東の軍官学校で養成された士官、下士官は近代支那においては、精鋭無比と称せられて
いる。事実、長江沿岸に進出するまでの勇敢な行動は、日本軍に舌を巻かせたが、それら
将兵は多く戦死してしまった。
指揮する司令官も、てこずっている。旧式な軍隊慰撫の方式で彼らを激励する以外に方
法はない。すなわち『諸君はいま艱難と戦い困苦を忍ばねばならない。しかし南京、上海
を占領する暁には、必ずその労苦は報いられるだろう』と暗に略奪を仄めかし、物欲の満
足を示して不平を和らげるのである。よい鉄は釘にしない。良い人は兵にならない。
しからば兵はどのように募るのか。『招兵』と書いた紙の旗を立てて、盛り場を一巡す
る。続々と後ろからついてくる無職者、無頼漢、乞食、数だけは間に合う。間に合わせの
服を着せれば、わら人形も兵隊になる。
これらの無職者、宿無しは、平素から野宿、寒暑飢餓に耐える訓練が出来ている。射撃
はその場で現金を渡して上達をはかる。文明国流の軍隊の精神的な訓練など不要である。
乞食をしようか、それとも兵隊になろうか。ままよと、銃を取った弱いのと、土匪で居
ようか兵隊になろうかといって、間一髪のところで軍隊に入った強か者との集まりである。
支那の兵隊ほどおそろしく危険なものはない。』
蔡焜燦氏によると、「招兵」だけでなく、街頭で青壮年を拉致し兵隊にする「拉兵」も
あったという。事実、戦後の台湾には国共内戦のため中国大陸へ半強制的に送られ、帰郷
できない多くの台湾人が存在している。
■教師として再出発
帰郷すると宋さんは、まず小松原先生を訪ねた。日本への帰還船を待っていた先生は、
宋さんの訪問をたいへん喜んでくれたが、いつか別れの挨拶も十分に出来ぬ間に、あわた
だしく帰国されてしまった。困窮していた先生に、何もしてあげられなかったことと、2
28事件が起きたり、白色テロの嵐が吹き荒れたりして、音信が途絶えてしまったことを、
宋さんは長い間悔いていた。
宋さんは、いつまでもぶらぶらしているわけにもいかず、仕事探しをはじめた。しかし
戦後の台湾は何もかもが変わってしまい、なかなか適当な仕事はなかった。縁あって、学
校の教師をすることになった。しかし、状況が大きく変わった点では、学校も例外でなか
った。
戦前は台北高校の教師で、戦後はアメリカ大使館員だったジョージ、カーの著した『裏
切られた台湾』によると、大陸からやってきた中国人は、先を争って、日本人が占めてい
た職につき、目先の利く連中が、うまみのある仕事を独占したという。給与の額より賄賂
のチャンスがどのくらいあるかが、彼らの物差しであった。教員などは彼らの価値観から
すると、最低の仕事だった。そのため、教員には最も能力的にふさわしくない、他の仕事
にあぶれた連中が就いていた。まともに字が書けない者、計算さえ出来ない者もいた。
教師になった宋さんにも、いろいろ悩みが生まれた。まず北京語の勉強から始めなけれ
ばならなかった。日本の統治時代を、肯定的に評価するのもご法度であった。大陸から逃
げてきた国民党政府にとって、台湾人の日本への回帰は、最も警戒すべきことであった。
中国人の教師仲間から、「宋定国は親日的だ」と何度も批判された。つい本音が出てしま
うからであった。
■日本の近現代史を正しく理解する教材として
台湾の戦後教育は、中国一辺倒の教育であった。そこに台湾や台湾人の立場はなかった。
日本が登場するのは、反日教育の材料としてだけであった。これは今日の中国大陸におけ
る教育とも共通している。
宋さんは矛盾を感じながら、自分を今日あらしめてくれた小松原先生の教えを忘れず、
常に生徒の目線に立って、人間を大切にする教育を心がけた。
教え子からは、多くの人材が輩出している。立法委員(国会議員)として活躍していた
陳建銘氏もその1人で、「全くすばらしい先生だった。人間のあるべき姿を、常におだや
かに、身をもって実践されていた」という。
人の良さが裏目に出て、宋さんは教職を最後まで貫くことは出来なかった。他人の保証
人となって多額の負債を背負い込み、教員を辞めなければならなかったからである。教職
を辞した宋さんは、退職金で負債を返済すると、縁あって松山空港近くに新設された福内
金賓館というホテルのマネージャーになった。
金融界ですでに成功していた高座時代の友人の王塗城氏が出資者の一人で、信頼できる
人間を探していたからである。
宋定国さんのホテル勤めは、高座廠帰りの仲間に溜り場を提供したばかりか、その結集
にも役立った。台湾各地には、日本帰りの元少年工の会が結成されていたが、その横の連
携がこのホテルを中心に密かに行われ、戒厳令解除と同時に、台湾高座会(李雪峰会長、
会員3000名)が発足したのである。
■小松原先生との再会と別れ
更に、人生は何かの縁でつながっているのだろう。ある日、ホテルに千葉県鎌ヶ谷市の
人が来た。宋さんは、小松原先生の実家が鎌ヶ谷だったことを思い出した。そしてその客
の親切で、小松原先生と翌日には連絡がついたのである。
小躍りする気持ちだった。昭和51年(1976年)のことで、台湾の社会もすでに安定して
いた。
宋さんは同級生と相談し、小松原先生を台湾へ呼ぶことにした。台北郊外の北投温泉
「華南大飯店」に、社子公学校の同期生75名が集まり、小松原雄二郎先生歓迎謝恩会が盛
大に開催された。だれもが笑顔で先生を迎え、最後に目を潤ませて「仰げば尊し」を斉唱
した。同期生は金を出し合い、先生に洋服から靴、時計まで、全てを新調して贈った。先
生は非常に喜ばれ、「教師冥利に尽きる。私はもう死んでも思い残すことはない」と言っ
て帰国された。
翌年、宋さんは小松原先生のご家族から「先生が重病」との連絡を受けた。直ちに先生
を東京・飯田橋の厚生病院に見舞い、6日間必死に看病したが、祈りは通じなかった。
「宋君、ありがとう」という言葉が最後だった。悲しみがこみ上げてきた。
敗戦の年、台湾の就学率は92.5%だったが、イギリスとオランダの支配していたインド
とインドネシアでは、わずか数%に過ぎなかった。台湾のこの高い就学率こそ、半世紀に
わたる多くの日本人教師の献身的努力の偉大な金字塔である(そこには、多くの台湾人教
師の努力も当然含まれている。むしろ日本統治の後半期には、優秀な教師は圧倒的に台湾
人だったという)。
宋定国さんのケースは、それを具体的に裏づけるものである。日本統治時代の一日本人
教師の指導を徳とし、今も師と慕う台湾人の美しい報恩の物語である。台湾には、この種
の話が実に多い。
そうした意味で台湾は、私たちの父祖の時代の日本を、曇りない眼で見ることのできる、
最高の教室であると私は考えている。宋定国さんの海を越えた墓参りが、日台をつなぐ懸
け橋として、また日本人が自国の近現代史を正しく理解する教材として、これからも可能
な限り続けられることを、宋さんの長寿と共に祈りたい。
(終わり)