台湾で今も敬愛されている日本人教師(1)[石川 公弘]

映画「台湾人生」は、酒井充子(さかい・あつこ)監督が2002年から7年の歳月をかけ、
日本統治時代の台湾で青少年期を過ごした5人の台湾人を取材したドキュメンタリー映画
で、初監督作品です。

 いまでも茶摘みに精を出す楊足妹さん(1928年生)、立法委員を15年務めたパイワン族
出身のタリグ・プジャズヤンさん(1928年生)、男だったら特攻隊に志願したと言い切る
陳清香さん(1926年生)、総統府と二二八紀念館でボランティア解説員を務めている蕭錦
文さん(1926年生)、千葉県にある恩師の日本人教師の墓参りを毎年欠かさない台湾少年
工出身の宋定國さん(1925年生)。

 この5人の中の宋定國さんと昵懇のお付き合いをされているのが、台湾少年工との交流
を続けている高座日台交流の会事務局長をつとめる、本会理事で神奈川県支部長の石川公
弘さんです。映画「台湾人生」に登場するきっかけとなったのは、石川さんが中学校の同
窓会誌に寄稿した一文でした。

 それがNHKラジオのディレクターの目にとまり、石川さんが「ラジオ深夜便」に出演
して宋定國さんと恩師の物語を話したことが大きな感動を起こしました。またNHK発行
の冊子にも収録されるに至って多くの方の目に触れることになり、宋定國さんのことが広
く知れ渡るようになりました。

 石川さんは平成17年(2005年)6月からブログ「台湾春秋」を始め、その9月20日から同
窓会誌に寄稿した「台湾で今も敬愛されている日本人教師」を連載しています。この一文
を読めば、台湾と日本の深い結びつきがよく分かり、映画「台湾人生」をさらによく理解
できます。

 ここに、石川さんのご了承をいただき、ブログから転載してご紹介いたします。ブログ
では6回にわたっての連載ですが、本誌では3回に分けてご紹介します。    (編集部)

■石川公弘氏ブログ「台湾春秋」
 http://blogs.yahoo.co.jp/kim123hiro/archive/2005/9?m=l


台湾で今も敬愛されている日本人教師(1)

                       石川台湾問題研究所代表 石川 公弘

■成田空港から墓苑へ直行

 平成16年11月、秋の深まる成田の東京国際空港に、台湾から一人の老人が降り立った。
宋定国さん80歳、台湾高座会台北区会の会長である。宋さんはすぐ、電車を乗り継ぎ、鎌
ヶ谷市初富にある霊園に向かった。そこには、敬愛してやまない社子公学校(日本の小学
校)時代の恩師、小松原雄二郎先生が眠っている。墓前に額ずくと宋さんは、いつもなが
ら先生への感謝の言葉と、自分の近況を報告した。

宋定国さんは遠い台湾から、毎年この墓参りのために、わざわざ日本へやってくる。台
湾で戒厳令が解除された十数年前から、宋さんはこの墓参りを欠かしたことがない。そし
て自分の子や孫には、「私の人生にとって、小松原先生は神や仏以上の存在だ」と常に話
している。

 私が初めて台湾を訪れたとき、宋さんは、「日台間で行われるスポーツなどを観戦して
いて、いつの間にか日本を応援している自分に気づき、びっくりすることがあります。私
はときどき、自分が台湾人なのか、日本人なのか分からなくなるのです」と語ってくれた。
「ずいぶん正直な人だ」という印象を持ったが、日本の敗戦で突然国籍が変わった20歳ま
で、日本人だったのだから、ある意味では当然かも知れない。

 司馬遼太郎はその著『台湾紀行』で、「老台北」という人をたいへん人間性豊かに描い
ている。まだ「老台北」こと蔡焜燦さんを存じあげなかった私は、「老台北」はおそらく
宋定国さんのような人だと勝手に想像して、宋さんのことを「老台北」と呼んでいた。

 李登輝さんが台湾総統選挙に立候補したとき、中国政府はその当選を阻止しようと、台
湾の北部と南部の沖合へミサイルを撃ち込んだ。いわゆる武嚇である。その夜私たち二人
は、台北の小さなクラブにいたが、宋定国さんは、「奴らが攻めて来たら、私も老骨なが
らライフルを持って戦います」と、決意を語ってくれた。そして、すっくと立ち上がり、
直立不動で歌い出したのが、甲斐の民謡「武田節」だった。特に二番を力強く歌った。

 祖霊ましますこの山河 敵に踏ませてなるものか
   人は石垣 人は城 情けは味方 仇は敵 仇は敵

 この宋定国さんが、手を震わせながら、時には涙しながら語るその人生は、波瀾万丈で、
とつとつとした調子ではあるが実に興味深い。

■「先生、授業料が払えません」

 「私は、大正14年6月28日、台湾の台北州七星郡士林街社子の貧しい農家に生まれまし
た。ようやく歩けるようになった頃、母菊を失いました。唯一頼れるのは祖母でしたが、
その祖母も多くの孫を抱えていました。公学校四年の終るころ、今度は父聡明が盲腸手術
の失敗で、他界してしまったのです。

 兄がいましたが、その兄が私に学校を中退して家の手助けをしろと言うのです。私はま
だまだ勉強したかったので、退学しろと言われたときは、目の前が真っ暗になりました。
私はこの事情を赴任してきたばかりの受持ちの先生に訴えました。先生は千葉県から来ら
れたばかりの、小松原雄二郎という方でした。

 事情を聞いて小松原先生は、『せめて公学校だけは、どんなに苦しくても卒業しなさい』
と諭してくれました。『でも先生、授業料が払えないのです』。当時の台湾は、まだ義務
教育でなかったので、授業料が必要でした。

 すると先生は、『心配するな、先生が出してあげるから』と言ってくれました。

 そして私の家庭を訪問し、なんとか兄を説得してくれたのです。兄は、二度と家業を手
伝えと言い出しませんでした。それからは、授業料だけでなく学用品や配給される衣類の
代金、その他、諸々の配慮をしていただきました。

 私は発奮し、懸命に勉強して、公学校をトップで卒業しました。更に進学したかったの
ですが、とてもそんなことは言い出せません。進学など夢のまた夢でした。何しろ野良仕
事をしないと、ご飯も食べさせてもらえないのです。」

■働きながら通った夜間中学

 「せめて工業方面で働いてみたいと考えた私は、叔父に頼んでテント屋の丁稚小僧にな
りました。そして、朝早くから夜遅くまで、掃除、荷造り、車引き、ズックの裁断など、
寝る間も惜しんで働きました。

 テント屋で働いているとき、初めて夜間中学のあるのを知りました。それは貧困でも向
学心のある青少年のために、第四代総督の民生長官であった後藤新平の創立した台湾で唯
一の夜間中学で、成淵校と呼ばれていました。

 その成淵校(現在の成淵高等中学)は、厳しい環境下で勉学する生徒ばかりなので、卒
業生は入学時の3分の1になってしまうと言われていました。公学校を卒業していれば、誰
でも希望通り予科1年へ入学できたのですが、私はあえて予科2年に挑戦し、幸いにも入学
することができました。

 それからは、仕事の疲れや空腹と闘いながら、寸暇を惜しんで勉学に励みましたが、本
科1年の終わるころ、とうとう身体を壊してしまい、蓄えも底をついて、途方に暮れてい
ました。

 すると級友が、『宋君、小松原先生のところへ遊びに行きなさい』と盛んに勧めてくれ
たのです。『ルンペンをしているので、面目ない』と答えると、『先生は何もかもご存知
だから、訪ねていって相談した方がいい』と言うのです。

 友人があまりにも熱心に勧めるので、思い切って士林にある先生のお宅を訪ねますと、
たしかに先生は何もかもご存知の様子でした。そして、『宋君よ、挫けちゃだめだよ、い
ま挫けたらお仕舞いだ。台湾食品工業の増田四郎専務とは昵懇だから、勉強と両立できる
適当な仕事をお願いしてやる』とのことです。

 社子公学校を卒業してから四年も経つのに、まだ教え子のことを心配してくれる先生に、
私はただ感謝するのみでした。お宅から退出するとき、先生は私を垣根の外まで追いかけ
てきて、おそらく奥様には内緒だったでしょう。当時としては大金の、五円札をポケット
にねじ込んでくれました。

 そして、『宋君、近い中に会社から便りがあると思うが、勉強だけはどんなことがあっ
ても続けなさい』と言われました。お礼の言葉も満足に言えませんでしたが、この温情に
は必ず応えなければならないと、固く誓ったものです。

 程なくして会社から通知がありました。周囲はみな心温かい人たちばかりで、会社に住
込みも許され、学校へ通うのは非常に楽になりました。私は先生へ感謝しながら、小松原
雄二郎の名を汚さぬよう懸命に働きました。

 ある晩のこと、台湾を猛烈な暴風が襲いました。そのとき、基隆河の岸辺に近い2000坪
もある工場に居たのは、私だけでした。目を覚ますと、風雨は容赦なく襲いかかり、水は
すでに会社の玄関近くまで押し寄せています。本土から到着したばかりの新しい樽材の流
出は、一応食い止めましたが、岸辺に並べてあった大小の樽は流され、工場内の何百もの
真新しい樽も流される寸前でした。

 何とかそれを食い止めなければならないと、私は危険を顧みず、風雨ばかりでなく、毒
蛇とも戦いながら、あちらこちら必死に泳ぎ回り、損害を最低限度に止めることが出来ま
した。

 天候が回復してから、社長や増田専務からお褒めの言葉をいただきましたが、特にうれ
しかったのは、小松原先生まで工場へ駆けつけ、共に喜んでくださったことです。」 

                                    (続く)