のたびにご紹介しています。1月31日、下記のご挨拶文とともにお送りいただきましたので
ご紹介します。
お送りいただいた「廣枝音右衛門氏」は、昨年9月20日から23日に行った本会主催の「日
台シンポと廣枝慰霊祭ツアー」に傳田氏が参加、この体験を元に書かれています。
ちなみに、廣枝音右衛門(ひろえだ・おとうえもん)のお墓と遺徳顕彰碑は茨城県取手
市にあり、本会茨城県支部が支部設立後の第一弾として参拝しています。この模様を茨城
県支部担当の室和代(むろ・かずよ)さんが本会機関誌「日台共栄」に発表していますの
で、次にご紹介します。
なお、原題は「廣枝音右衛門氏」でしたが、本誌掲載にあたり「台湾人を救った廣枝音
右衛門を慰霊顕彰する台湾人部下と日本人青年」と改題し、また読みやすさを考慮し、適
宜、漢字をひらがなに開き、改行も施していることをお断りします。
伝田です。ご無沙汰いたしております。皆様いかがお過ごしですか?
こちらはいよいよ春節(旧正月)一週間前です。テレビのCMや新聞は春節一色です。
陽気の方は少し暖かくなり、日中は快適ですが、朝晩はやはり少々寒い感じです。
ようやく台湾通信No.70「廣枝音右衛門氏」が完成いたしました。これは昨年の9月末に
行われた廣枝音右衛門氏慰霊ツアーに参加して学んだことをベースに書きました。
大東亜戦争中、フィリピンの市街戦で台湾の兵士数百人を救い、自らは自決された日本人
廣枝音右衛門氏と彼の慰霊を続ける台湾の元兵士、さらにその偉業を引き継ごうという日
本人の物語です。お読みいただければ幸いです。
傳田晴久
廣枝音右衛門氏
【台湾通信(第70回):2013年1月31日】
◆はじめに
今回は立派な3人の方々を紹介いたします。
1番目の方は、台湾通信No.66で飛虎将軍として祀れている日本人飛行士杉浦茂峰(すぎ
うら・しげみね)少尉を紹介しましたが、台湾には神様として祀られているもう一人の日
本人がおられ、廣枝音右衛門(ひろえだ・おとうえもん)警部という方です。この方は大
東亜戦争末期、フィリピン、マニラ市で玉砕命令が出ていた部下の台湾人兵士500人余の命
を救い、自らは拳銃で自決されたという。
2番目の方は廣枝警部の部下で、戦後ただ一人で、命の恩人である警部の慰霊を続けてお
られる劉維添(りゅう・いてん)氏です。
さらに3番目の方は劉維添氏が執り行う慰霊祭に感じるところあり、劉維添氏の志を継ぎ
たいと考えておられる渡邊崇之(わたなべ・たかゆき)氏です。
この話は昨年2012年9月22日に行われた「廣枝音右衛門氏慰霊祭ツアー」に参加し、お聞
きしたものです。以下に3人の方々をご紹介いたします。
◆廣枝音右衛門(ひろえだ・おとうえもん)警部
廣枝氏は1905年(明治38年)神奈川県足柄下郡に生まれ、逗子開成中学、日本大学予科
を経て、23歳の時佐倉歩兵第57連隊に入隊、軍曹となり、満期除隊後小学校教員となっ
た。1930年、台湾に渡り、競争率100倍という警察官試験に合格し、台湾総督府巡査となっ
た(26歳)。
32歳で巡査部長、34歳で警部補、38歳で警部に昇進、その間台湾の基隆、新竹、竹南、
苗栗、大湖など各地で勤務したが、1943年(昭和18年)に結成された海軍巡査隊の総勢
2000名の総指揮官に任命され(39歳)、マニラの守備に就いた。
昭和20年2月、米軍の反撃により、戦況は日増しに悪化し、日本軍は遂に特攻作戦を開始
し、棒地雷や円錐弾による戦車への体当たりを敢行する。当然、廣枝隊長の海軍巡査隊に
も突撃命令が下されたが、廣枝隊長は部下を集め、「諸君はよく日本のために戦ってくれ
た。だがもうよい。戦闘の続行は戦備からも不可能である。そうはいっても、今ここで軍
の命令通りに玉砕することは犬死に等しい。故国台湾には、諸君の生還を心から祈ってい
る家族がいる。この際米軍に投降し、捕虜になってでも生きて帰れ。責任は私がとる。私
は日本人だからね」と言い残して、自らは壕に入り、拳銃で頭部を打ち抜き、自決したと
言います。昭和20年2月23日午後3時頃のこと。享年40歳。(『台湾と日本・交流秘話』展
転社からの引用)
◆劉維添(りゅう・いてん)氏
劉維添氏は廣枝音右衛門氏の部下で海軍巡査隊の小隊長を務めておられたという。生年
月日はお聞きしていないが、去年(2012年)91歳というから1921年(大正10年)のお生ま
れでしょうか。
去年の慰霊祭の当日朝、心臓発作を起こされたということで、慰霊祭ツアー参加者は大
変心配しましたが、その日の午後、かなりご無理されたと思うが、我々にお会いくださっ
た。とても91歳には見えないくらい、背筋もピンと伸びておられ、まさに矍鑠(かくしゃ
く)とされていました。
次項で述べる渡邊崇之氏作成のコラム「日台絆のバトンリレー」によると、劉維添氏は
1943年志願して海軍巡査隊に入隊し、廣枝音右衛門氏と行動を共にするようになった。廣
枝隊長自決後、劉維添小隊長は隊員を引き連れて米軍に投降し、台湾に戻った。
戦後31年過ぎたころ(1976年)、かつての戦友と共に、台湾中部は苗栗県竹南鎮の獅頭
山勧化堂にて廣枝音右衛門氏の英霊安置の式典を行った。出来れば「廟」を建立したかっ
たが、当時は中国国民党政権による戒厳令下、とても日本人を祀る廟の建設などできよう
はずもなく、獅頭山に永代佛としての供養をお願いした。
お位牌を作り、毎年9月26日に慰霊祭を執り行っておられる。戦友も次々と他界し、今で
は劉維添氏が只おひとりで慰霊のお祀りを催されているといいます。
劉維添氏は1985年に彼の激戦地マニラに赴き、廣枝隊長自決の場を訪ね、土を採取し、
茨城県取手市にお住まいだった廣枝氏の未亡人ふみ夫人にお渡ししたという。さらに、夫
人逝去後、劉氏は「警部もおさびしいだろうと思い、奥様のお名前もお位牌に入れさせて
いただきました」とのことです。
◆渡邊崇之(わたなべ・たかゆき)氏
上に記述した内容の多くは渡邊崇之氏のコラムや前記『交流秘話』などからの引用です
が、3人目の立派な方はこの渡邊氏です。氏は1972年生まれと言いますから、現在40歳でし
ょうか、台湾にお住まいで、経営コンサルティングをなさっているとのことです。
渡邊崇之さんは友愛会のメンバーで、一昨年(2011年)7月の月例会で「日台絆のバトン
リレー:マニラ市街戦から受け継ぐ絆のバトン」と題するスピーチをされました。それは
廣枝音右衛門氏が先の大戦末期に部下の台湾人兵士を玉砕させることなく台湾に帰還させ
たという話と、戦後自決された廣枝隊長の慰霊を一人で続けておられる劉維添氏を紹介す
るモノでした。
スピーチの最後に渡邊さんは次のように述べられました。
≪先代の日本人たちが台湾に遺した無形の遺産を台湾の皆さんがしっかり受け継ぎ、後世
に残そうとしてくれています。悲しいかな、台湾にも日本にも歴史の断絶、世代の断絶が
あり、なかなか子々代々語り継がれることが難しくなっています。私たちの世代でできる
ことは皆さんの思いを少しでも吸収して、後世に伝えていくことであります。
マニラ市街戦で唯一の生存者と成られた劉維添氏による慰霊祭も今、その絆が消えてい
こうとしています。何とか、私たちの世代でそれを後世に残すことが出来ればと思ってお
ります。≫
昨年(2012年)9月に行われた慰霊祭ツアーのバスの中、渡邊崇之氏は劉維添氏の思いを
引き継いでいきたいとの決意を語られました。
◆おわりに
「子は親の背中を見て育つ」と言います。部下は上司の行動をじっと見ています。そし
て部下は上司の善行を学び、真似をする。その部下が又その姿を学ぶ。善行は次から次へ
とつながっていきます。日本や台湾にはそのような流れがあるようです。
対するは易姓革命の考えでしょう。天子は天命を受けて国家を統治しているから、天子
の徳が衰えれば天命も革(あらた)まり、有徳者(他姓の人)が新たに王朝を創始すると
いう考え方です。これは私には「断絶」と映ります。
私の前職は経営コンサルタントでしたから、現役時代は盛んに改善、改革、経営改革を
提唱し、推進してきました。今にして思いますと、改革(断絶)していいものと断絶させ
てはいけないものがあるように思われます。確かに何でもかんでも先人の真似をしていれ
ばいいということはありませんが、先人の行いはすべて悪であると決めつけるのはいかが
なものでしょうか。
多くの台湾人の命を救い、自らは自決した上官の恩に報いようとする部下が、同僚が
次々に亡くなって行った後、 一人になっても慰霊を続ける台湾人、そしてその姿を見て心
に感ずるものがあり、その思いを引き継いでいこうという人がいる。
丁度この「台湾通信No.70」の構想を練っている時、箱根駅伝の中継放送がありました。
考えてみますと、我々日本人は駅伝が好きです。中学、高校、大学、実業団……一本のた
すきを、厳しい条件下で引き継いでいく競技は多くのドラマを生み、感動を与えてくれま
す。