【臺灣通信】「廣枝音右衛門氏」

【臺灣通信】「廣枝音右衛門氏」

                     傳田 晴久

1.はじめに

今回は立派な3人の方々を紹介いたします。1番目の方は、台湾通信No.66で飛虎将軍として祀れている日本人飛行士杉浦茂峰少尉を紹介しましたが、台湾には神様として祀られているもう一人の日本人が居られ、廣枝音右衛門警部と言う方です。この方は大東亜戦争末期、フィリピン、マニラ市で玉砕命令が出ていた部下の台湾人兵士500人余の命を救い、自らは拳銃で自決されたと言う。2番目の方は廣枝警部の部下で、戦後ただ一人で、命の恩人である警部の慰霊を続けておられる劉維添氏です。さらに3番目の方は劉維添氏が執り行う慰霊祭に感じるところあり、劉維添氏の志を継ぎたいと考えておられる渡邊崇之氏です。

この話は昨年2012年9月22日に行われた「廣枝音右衛門氏慰霊祭ツアー」に参加し、お聞きしたものです。以下に3人の方々をご紹介いたします。

2.廣枝音右衛門(ひろえだ・おとうえもん)警部

廣枝氏は1905年(明治38年)神奈川県足柄下郡に生まれ、逗子開成中学、日本大学予科を経て、23歳の時佐倉歩兵第57連隊に入隊、軍曹となり、満期除隊後小学校教員となった。1930年、台湾に渡り、競争率100倍という警察官試験に合格し、台湾総督府巡査となった(26歳)。

32歳で巡査部長、34歳で警部補、38歳で警部に昇進、その間台湾の基隆、新竹、竹南、苗栗、大湖など各地で勤務したが、1943年(昭和18年)に結成された海軍巡査隊の総勢2000名の総指揮官に任命され(39歳)、マニラの守備に就いた。

昭和20年2月、米軍の反撃により、戦況は日増しに悪化し、日本軍は遂に特攻作戦を開始し、棒地雷や円錐弾による戦車への体当たりを敢行する。当然廣枝隊長の海軍巡査隊にも突撃命令が下されたが、廣枝隊長は部下を集め、「諸君はよく日本のために戦ってくれた。だがもうよい。戦闘の続行は戦備からも不可能
である。そうはいっても、今ここで軍の命令通りに玉砕することは犬
死に等しい。故国台湾には、諸君の生還を心から祈っている家族がいる。この際米軍に投降し、捕虜になってでも生きて帰れ。責任は私がとる。私は日本人だからね」と言い残して、自らは壕に入り、拳銃で頭部を打ち抜き、自決したと言います。昭和20年2月23日午後3時頃のこと。享年40歳。(「台湾と日本 交流秘話」展転社からの引用)

3.劉維添(りゅういてん)氏。

劉維添氏は廣枝音右衛門氏の部下で海軍巡査隊の小隊長を務めておられたと言う。生年月日はお聞きしていないが、去年(2012年)91歳というから1921年(大正10年)のお生まれでしょうか。去年の慰霊祭の当日朝、心臓発作を起こされたということで、慰霊祭ツアー参加者は大変心配しましたが、その日の午後、かなりご無理されたと思うが、我々にお会いくださった。とても91歳には見えないくらい、背筋もピンと伸びておられ、まさに矍鑠(かくしゃく)とされていました。

次項で述べる渡邊崇之氏作成のコラム「日台絆のバトンリレー」によると、劉維添氏は1943年志願して海軍巡査隊に入隊し、廣枝音右衛門氏と行動を共にするようになった。廣枝隊長自決後、劉維添小隊長は隊員を引き連れて米軍に投降し、台湾に戻った。戦後31年過ぎたころ(1976年)、かつての戦友と共に、台湾中部の苗栗県竹南鎮獅頭山勧化堂にて廣枝音右衛門氏の英霊安置の式典を行った。出来れば「廟」を建立したかったが、当時は中国国民党政権による戒厳令下、とても日本人を祀る廟の建設など出来ようはずもなく、獅頭山に永代佛としての供養をお願いした。お位牌を作り、

毎年9月26日に慰霊祭を執り行っておられる。戦友も次々と他界し、今では劉維添氏が只おひとりで慰霊のお祀りを催されていると言います。

劉維添氏は1985年に彼の激戦地マニラに赴き、廣枝隊長自決の場を訪ね、土を採取し、茨城県取手市にお住まいだった廣枝氏の未亡人ふみ夫人にお渡ししたという。さらに、夫人逝去後、劉氏は「警部もおさびしいだろうと思い、奥様のお名前もお位牌に入れさせていただきました」とのことです。

4.渡邊崇之(わたなべ・たかゆき)氏

上に記述した内容の多くは渡邊崇之氏のコラムや前記「交流秘話」などからの引用ですが、3人目の立派な方はこの渡邊氏です。氏は1972年生まれと言いますから、現在40歳でしょうか、台湾にお住まいで、経営コンサルティングをなさっているとのことです。

渡邊崇之さんは友愛会のメンバーで、一昨年(2011年)7月の月例会で「日台絆のバトンリレー:マニラ市街戦から受け継ぐ絆のバトン」と題するスピーチをされました。それは廣枝音右衛門氏が先の大戦末期に部下の台湾人兵士を玉砕させることなく台湾に帰還させたと言う話と、戦後自決された廣枝隊長の慰霊を一人で続けておられる劉維添氏を紹介するモノでした。

スピーチの最後に渡邊さんは次のように述べられました。

「先代の日本人達が台湾に遺した無形の遺産を台湾の皆さんがしっかり受け継ぎ、後世に残そうとしてくれています。悲しいかな、台湾にも日本にも歴史の断絶、世代の断絶があり、なかなか子々代々語り継がれることが難しくなっています。私たちの世代でできることは皆さんの思いを少しでも吸収して、後世に伝えていくことであります。今マニラ市街戦で唯一の生存者と成られた劉維添氏による慰霊祭も今、その絆が消えていこうとしています。何とか、私たちの世代でそれを後世に残すことが出来ればと思っております。」
昨年(2012年)9月に行われた慰霊祭ツアーのバスの中、渡邊崇之氏は劉維添氏の思いを引き継いでいきたいとの決意を語られました。

5. おわりに

「子は親の背中を見て育つ」と言います。部下は上司の行動をじっと見ています。そして部下は上司の善行を学び、真似をする。その部下が又その姿を学ぶ。善行は次から次へとつながっていきます。日本や台湾にはそのような流れがあるようです。

対するは易姓革命の考えでしょう。天子は天命を受けて国家を統治しているから、天子の徳が衰えれば天命も革(あらた)まり、有徳者(他姓の人)が新たに王朝を創始すると言う考え方です。これは私には「断絶」と映ります。私の前職は経営コンサルタントでしたから、現役時代は盛んに改善、改革、経営改革を提唱し、推進してきました。今にして思いますと、改革(断絶)していいものと断絶させてはいけないものがあるように思われます。確かに何でもかんでも先人の真似をしていればいいと言うことはありませんが、先人の行いはすべて悪であると決めつけるのは如何なものでしょうか。

多くの台湾人の命を救い、自らは自決した上官の恩に報いようとする部下が、同僚が次々に亡くなって行った後、 一人になっても慰霊を続ける台湾人、そしてその姿を見て心に感ずるものがあり、その思いを引き継いでいこうと言う人がいる。丁度この台湾通信No.70の構想を練って居る時、箱根駅伝の中継放送がありました。考えてみますと、我々日本人は駅伝が好きです。中学、高校、大学、実業団・・・・一本のたすきを、厳しい条件下で引き継いでいく競技は多くのドラマを生み、感動を与えて呉れます。                         

『台湾の声』 http://www.emaga.com/info/3407.html