【臺灣通信】ある重度身障者の成功物語

【臺灣通信】ある重度身障者の成功物語

                  傳田 晴久
1. はじめに
友愛会の事務局長張文芳さんが2012年11月の月例会資料に「読む価値のあるヒューマン実話:ある重度身障者の成功物語」を掲載してくださいました。インターネット配信された中国語文「很値得看的真人真事」を張文芳さんが日本語訳されたものですが、内容があまりに素晴らしいので、台湾通信をお読みくださる方々にもご紹介したいと思い、張文芳さんのお許しを得て、台湾通信No.68とさせていただきました。

本物語は年末に発行される友愛会の文集「友愛第13号」に中国語と日本語の併記で掲載されます。
以下どうぞ・・・・・。

2. ある重度障碍者の成功物語

「困難に遭った時、私は打ちのめされるのではなく、方法を講じて解決します」
南投県山間地の田舎に、阿潭(あたん)という名の男の子がいました。彼は3歳の時、小児麻痺に罹り、それから立つことも歩くことも出来なくなりました。この子は鰐のように胸部を地べたに臥せて這うことしかできないので、膝、すね、足の甲はいつも擦り破れて血だらけ、多くのあばたが残っていました。

7歳になったころ、父親は彼に両手を使い、靴を引きずって歩くことを教えました。考えてみてください。阿潭が手で靴を引きずって地べたを這っていると、人たちはきっと好奇的な目で彼を見るはずです。しかし、阿潭は卑屈になることはなく、微笑みで応えるのでした。

子供が7歳になると小学校に上がる歳ですが、母親は阿潭が学童たちから嘲笑われたり、虐められることを恐れ、彼を入学させようとしませんでした。

9歳になった時、教育熱心な校長先生の提案で三輪車を1台購入し、全校の学童たちに協力を頼み、阿潭を乗せた三輪車を押して登下校させることにしました。
でも雨が降ったらどうする?ある日土砂降りの大雨の中、三輪車は山道の泥濘にはまり、二進も三進も行かなくなり、動きません。学友たちは皆そのまま立ち去りました。阿潭の涙は雨水と一緒に流れるだけ、姉もそばで恨みごとをこぼすだけです。こうして六年が過ぎましたが、天は努力する人を見捨てませんでした。

阿潭は西嶺国民小学(小学校)を1位の成績で卒業したのです。
でも、又問題が生じました。山間地には中学校がないのです。
阿潭は「僕はこれからどうすればいいの?」と父親に聞きました。父親は多くの人たちに意見を請いました。ある人は「靴磨きをさせたらいいだろう」と言うかと思うと、「この子は『廃人』だ。勉強なんかさせる必要も、仕事を学ぶ必要もないから、どんぶりでも上げて駅で地べたに臥せて乞食にならせたら、人様が小銭を恵んでくれるだろう」という酷い提案をする人もいました。

それを聞いた阿潭は情けない思いで、付近の木陰に行き、「嫌だ!嫌だ!僕は廃人なんかじゃない!僕は廃人にならないぞ!乞食なんかになるもんか……」と泣きながら大声で叫んだのです。

その後、小学校の隣に国民中学(中学校)が立てられ、阿潭は嬉しくなって、何日もうれし泣きしました。彼は「これは神様が僕の祈りを叶えて下さったんだ。神様は僕を決して見捨てない」と神様の存在を堅く信じたのです。
このため、阿潭は勉強に一層の努力を注ぎ、3年後、又もや1位の成績で鳳鳴中学を卒業したのです。

正に、「天は自らを助けるものを助く」で、自ら雄々しく自立し、敢えて運命に向かって挑戦する者は、即ち巨人なり!

「困難に遭った時、私は打ちのめされるのではなく、方法を講じて解決します」と阿潭の口癖です。

阿潭は「劉大潭」という氏名で、彼はその後台中高工、逢甲大学機械工程学部に進学し、何れも1位の成績で卒業を果たしたのです。

彼の確固たる信念と毅力は、あたかも『恩に感ずる心』という歌の歌詞に「私は天に向かって誓う、私は絶対に負けない!」と同じように、求職活動の過程で、劉大潭は100社以上の会社・商店から悉く断られ、甚だしきに至っては、守衛から門前払いされる始末、それでも最後にはある工場が「試用」を条件に彼を採用してくれました。劉大潭は報酬の多寡を問わず、仕事に全身全霊を打込み、無償で残業をやり、他人が一つだけの案を設計するのに対し、彼は残業で5、6種もの設計を行い、社長の選択に提供しました。このような献身的な仕事ぶりと真剣な態度は、大いに社長の賞賛を勝ち取り、阿潭を班長から設計課長に、そして研究開発部長にまで昇進させ、全社最高額の給料を得るまでになりました。
その後、劉大潭は書道塾で才能ある美しい少女と付き合うことになり、相思双恋の仲になりました。当然、少女の父親は誰が何と言おうと、大事な娘を「手で歩く」男に嫁入りさせるはずがありません。

劉大潭は勇気を奮って、恭しく「義父となる可能性」の少女の父親に対し「僕は足が不具合な以外、体は健康で、品行方正、そして責任感もあり、現在設計課長の給料も至って安定しております。何より重要なのは、僕はあなたの娘さんを心から愛しています……」と述べました。一晩中の懇談の結果、未来の岳父はとうとう2人の結婚を承諾したのです。
今では、劉大潭は花のような美貌の妻と、3人の可愛く綺麗な娘に恵まれています。しかも劉大潭は自分でも創業した「速跑得機械公司」の社長にまで成功したのです。
彼は15年前の事を話してくれました。ある日、彼は「這って」自動車の展示会場に向かいました。現場にいた5、6名の営業マンは彼の異様な姿を見ると、物乞いか、乞食がやって来たと思い、彼を避けて遠ざかりました。

この時、劉大潭は展示場の女子職員に「車を買いたいのですが!」と声をかけたが、誰も相手にしなかったばかりか、そばで人を小バカにしたようにクスクス笑っているのです。
翌日、彼は再び新車展示場に「這い」込みましたが、そばには銀行の支店長が付き添い、持参した「60万元」の札束をテーブルの上に置きました。その時、唖然とした営業マン達は、慌てて態度を豹変、恭しくお茶やコーヒーのおもてなしを始めたのです。
支払いを済ませた彼は、持参したケースから、やおら工具と部品を取り出し、スチール棒をネジ回しでアクセルとブレーキに取り付け、「手を使って」運転操作できるように部分改造を行ったのです。

30分後、劉大潭はその新車を運転して会場から立ち去りました。現場にいた6、7名の営業マンは只々その経緯を瞠目し、驚き入るだけでした。
劉大潭の長年来の友人、広告界の才子范可欽さんは、「歩く姿は犬のようだが、生活は龍のようだ」と彼を批評しました。

歩く姿は犬のようだが、運命に翻弄され、幼い頃から只両手を使って萎縮した両足を引きずって匍匐前進するのみでした。他人の異様な、好奇な眼差しに晒された彼は今、永遠に百獣の尊「龍」の如く闊歩し、自身の不具については些かも卑下する心を抱かず、自信に満ちた微笑を以ってすべてに対面したのです。

劉大潭の自信は、彼の専業上の抜群の表現に基づいていました。
彼と30年余りも付き合っている友人曾壽塘は彼を次のように評価しました。
「目で見ることが出来、頭脳で考え付く物なら『教授』(劉大潭を指す)は、何れもコンピュータを用いて、3D立体図を書くことが出来るのです」

彼をよく知る友人は誰もが彼の事を「教授」と呼んでいます。彼の研究開発のエネルギーは、本物の大学教授と比べても、決して遜色はありません。今までに彼が取得した特許は200件近くに達しています。
20年前、彼はテレビのニュース番組で、7、8人の大学生が火災中に焼死した報道を見て、非常に心を痛めました。

ある日、彼は1匹の蜘蛛が葡萄棚から垂れ降りるのを見ると、あるアイディアが浮かび、直ちに家にかけ戻り、「蜘蛛高層ビル緩降機」を設計、具体化した装置を窓につるして試してみると、素晴らしい効果を挙げたのです。特許を出願し、許可されました。その後、国外の発明競技展に出展、見事金メダル賞を勝ち取りました。
又のある日、円山グランドホテルで会議に参加していた連戦氏がエレベータの故障で2時間もエレベータ内に閉じ込められたニュースを見て、彼は「停電あるいはエレベータが故障した際、一階まで安全に降下」できる安全エレベータを発明しました。この発明は又もや速やかに特許権と金頭脳賞を獲得したのです。

お分かりでしょうか?劉大潭さんの発明は数え切れないほどありますが、彼の一生のうち、もっとも良かったのは「廃物利用」だったと彼は言っています。
元々、彼の身体はすでに廃物だったのを、彼自身の堅持で「自分を正しく評価」し、決して諦めず、残された頭脳と両手を存分に利用したため、1人のトップクラスの発明家に成長したのが、彼の言う「廃物利用」なのです。

彼は曾て「全国発明展第1位、ゴールデン頭脳賞」に輝き、これ以外にも「スイス・ジュネーブ国際発明金メダル賞」、「ドイツ国際発明金メダル賞」、「国科会十大傑出ハイテク人材賞」、「文復会ハイテク総統賞」、「経済部中小企業クリエイティブ研究賞」……生涯に無数の賞を彼は見事に勝ち取っています。

同時に、彼は全世界で第1位の「障碍者発明家」でもあります。
劉大潭さんは「ここ数年来、手に入れた金メダルは『1キログラム』を超え、賞金は200万元(約US$66,700.00)をオーバーしました。私の人生目標は『金メダル5キログラム、賞金500万元』です」と豪語しています。

曾ては一生乞食に成り下がるしかないと馬鹿にされた赤貧の子供が、己の知恵に頼り、決して運命に屈しない毅力の持ち主・劉大潭さんは、今や、身代数千万元の企業家に大変身、成功したのであります。

3. おわりに

以上で「劉大潭の物語」は終わりますが、先日高雄の「志の会」でも、麥朝燦さんが「口と足で絵を画く―謝坤山さんの物語」という素晴らしいお話をしてくれました。この謝坤山さんのモットーは「自分の失くしたものを見るな、今自分にあるものを大切にしろ」ということだそうです。劉大潭さんの物語に通じるものがあります。
大東亜戦争終結後29年してルバング島から帰還したあの小野田寛郎さんの言葉、「何がない、彼にがないと言うのは知恵がない証拠」(多分こうだったと思います)を思い出します。

この台湾通信を書き終わったころ(2012年11月28日)、NHKのニュース番組で、日本のカリスマ経営者「春山 満」さんへのインタビューを放映していました。介護商品を開発販売している会社の社長さんです。彼は筋ジストロフィーの患者で、首から下の運動機能全廃ということです。彼の言葉は「失くしたものを数えるな」でした。


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