◆ご長男夫妻も参列
桜もちらほら咲き始めた4月1日、昨年12月4日に設立された茨城県支部(佐藤元支部長)
主催により、茨城県取手市内に建立されている廣枝音右衛門(ひろえだ・おとうえもん)
のお墓と遺徳顕彰碑への参拝が行われました。この日は、ご長男の廣枝晃比古(ひろえ
だ・てるひこ)氏ご夫妻からお話を伺えるということで、支部顧問の黄文雄(こう・ぶん
ゆう)副会長など支部会員10名と、他支部や一般の方も含めて23名が集まりました。
廣枝音右衛門とは、海軍巡査隊の大隊長として、大東亜戦争末期に部下であった台湾籍
日本兵2000名の命を自らの死をもって救った人物です。
1976(昭和51)年9月26日、廣枝音右衛門に命を救われた劉維添氏(90歳)ら部下だった
方々が台湾の苗栗県南庄郷の山腹にある仏教寺院、獅頭山勧化堂に廣枝をお祀りして供養
する英魂安置式を行いました。それから毎年欠かさず、劉維添氏らは慰霊祭を執り行って
います。
この慰霊顕彰の動きが日本にもすぐに伝播し、翌年11月、ふみ未亡人の住む茨城県取手
市にある弘経寺(ぐぎょうじ)の墓域に、元台湾新竹州警友会の奉賛により遺徳顕彰碑が
建立されました。弘経寺は取手駅から徒歩10分ほどのところにある浄土宗の古刹で、境内
には桜や杉の大木などもある堂々たるお寺です。
お寺の前で参加者が集合し、まず廣枝晃比古夫妻に比留間保夫(ひるま・やすお)副支
部長から挨拶があり、続いて、事務局長の薄井保則(うすい・やすのり)氏より今回の参
拝の意義などについて説明がありました。
廣枝音右衛門は明治38(1905)年、神奈川県足柄郡片浦村(現・小田原市)に生まれ、
日本大学を卒業後、昭和五年に台湾に渡って警察官になります。新竹州竹南郡政主任勤務
の時、大東亜戦争の戦線拡大により台湾で結成された総勢二千名にも及ぶ海軍巡査隊の総
指揮官に海軍巡査として任命されました。
昭和18(1948)年12月に廣枝隊長の海軍巡査隊はフィリピンのマニラに渡ります。戦局
が厳しくなった20年2月、軍上層部から米軍に対する総攻撃の命令を受け、棒地雷と円錐弾
が配られ、全員玉砕の命令に、廣枝隊長は苦悩します。
日頃より温厚な人柄ながら、並々ならぬ慈愛と勇気と責任感をもち、台湾人から慕われ
ていた廣枝隊長は決意しました。 「諸君には故国台湾で生還を待つ人がいる。ここで玉砕
するのは犬死に等しい。責任は私がとるから生き延びてほしい」と。そして2月23日午後3
時ごろ、自ら拳銃二発で頭を撃ち自決しました。享年40。
本日はその慰霊と顕彰のため参拝します、との説明でした。
◆日台の絆・廣枝音右衛門
次に、台湾の獅頭山勧化堂にも参拝した当会会員の片木裕一(かたぎ・ゆういち)氏か
らこの参拝に至るまでの説明がありました。廣枝の部下の劉維添氏が台湾で慰霊祭を行っ
ていて、当会会員の渡邊崇之氏が劉氏に出会って詳しい話を伺って感銘を受け、その話を
渡邊氏から聞き、ご遺族と連絡をとって本日の参拝につながったということでした。
続いて、廣枝晃比古氏からお話を伺いました。まず本日の墓参に多くの参加者が集まっ
てくれたことへの感謝の言葉を述べ、父と別れた時はまだ9歳だったので、父の果たした意
味がよく分からなかったということなど、体調があまり優れない中、側に奥様を伴われて
お話し下さいました。
日当たりのよい墓地の、南方に面したところに廣枝家のお墓があり、その横に遺徳顕彰
碑が建っています。すでに茨城県支部の方々によってお墓と顕彰碑は清められ、花が供え
られていました。石碑には「ああ壮烈 義人 廣枝音右衛門」と刻まれ、経歴やフィリピ
ンに派遣されてから自決されるまでのことが詳しく刻まれています。
参加者は一人ひとりが焼香し、頭を垂れました。それから顕彰碑の前で廣枝ご夫妻を囲
んで記念撮影し、黄文雄顧問の解説を伺って改めて感慨に浸ったあと、碑を後にしました。
その後、取手駅近くの店に宴席を設け、それぞれ台湾との出会いやつながりを述べて親
交を深めました。まさに「日台の絆」というべき廣枝音右衛門のような人物を通じ、今後
も台湾との絆を強めようとの思いを新たにした、とても有意義な春の一日でした。